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2009年7月13日 (月)

寺社随想 越生 龍穏寺

Simg_0899  埼玉県越生市の町外れに鄙びたお寺がある、それが龍穏寺である、さして大きな寺ではないが、江戸城を造営した太田道灌のお墓が有ることで有名である。

 太田道灌といえば「山吹の和歌」の話が連想され、この地にも山吹の里なるものがある、然し道灌が野狩りし、雨に逢ったのは、この越生ではなく、現在の東京都新宿区の早稲田のあたりとされている。江戸城から馬で駆けるには越生は遠過ぎると思う。

Simg_0901  龍穏寺には道灌の父親から一族の墓が並んでいる。道灌はこの地の出身であることは間違いないと思われる。

 話は変わるが、ここ越生は「黒山の三瀧」も有名である、この瀧から南に向かえば顔振峠に達する、この峠は源義経が東国に逃れる時通りがかり、余りにも周りの景色が美しく、後ろを振り向きながら登ったのでこの名が付けられたといわれている。ここで仲間から疑問が出た、「本当に義経がここを通ったのかな」、確か義経の東国へのルートは安宅関から北陸・越後を通ったと考えられる、従って武州を通ることはなかったと思われる。私の考えた結論は、追われている義経には目くらましとして何人かの影武者を立てていて、その内の一人が関東を通ったとしたが、如何なものだらうか。

 歴史的には一つの出来事であっても、後世の人が色々と知恵を絞り、関連した話が各地にできることは止むを得ないことでしょえね。

2009年6月26日 (金)

寺社随想 坂戸市 聖天宮

Simg_0878 埼玉県の坂戸市の一角に絢爛豪華な台湾風の神社が造られている。台湾出身の実業家が大病を患ったが、神を信じ完治されたのを機にお宮を建てたく、その地を探していたがお告げによりこの場所が選ばれた。

 台湾より材料を取り寄せ、万物の成立を司さどる「元始天尊」を主神とし「道徳天尊」「霊寶天尊」の三尊を祀る道教のお宮である。15年を掛け、平成7年に開廟した。

 黄色の屋根は好運を呼び、屋根に配置された龍や鳳凰はその先端の爪や羽先まで細かく細工された焼物で飾られている。建物の内部も見るべきものが多々あり、見事に造られたものと感嘆させられる。

 ただ私には日本の神社にはそれが建造された歴史があり、それから来る壮厳さを感じるが、こういった感覚が感じなかったのである。又残念ながら道教についてはよく知らないのでそのことも理解を浅くしているとも言える。

2009年5月11日 (月)

寺社随想 出雲大社

Dsc003976  出雲大社の誕生について前回の伊勢神宮と対比して考察してみよう。 出雲大社の創設について「記紀」には述べられていない。下って平安時代の口遊(くちずさみ)には、東大寺の高さ15丈より高く、16丈で大社が最高の高さを誇っていたと謡われている。16丈とは48mとなるが、木造では類を見ない高さであるが事実これは存在していたことは推定に難くは無い、想像図も画かれている。

 出雲大社は出雲を中心とする王国の首長がその先祖である大国主命を創めとする神々を祀った神社であり、又出雲王国の権力を鼓舞する建物として創建されたと考えては如何だろうか。最初に建てられたのは伊勢神宮と同様 五世紀頃であらう、大和は力の及ぶ東の伊勢の地に伊勢神宮を建てたが、出雲は国の中心の地としたのは、当時の日本海沿岸の交易に役立つ目印を兼ねたものであった、そのため出来るだけ高いものとしたと考えられる、最初から48mという高さではなかったが、建て直し毎に高くし900年頃の平安時代には高くなっていたのであらう。いずれにしても当初は大和王国との対抗意識を強く示したものと考えられる。

Photo  平成12年に大社の敷地内に太い木を3本鉄の輪で束ねた柱の遺物が発見された。(右の写真はその一本である)  この様な構造て高い柱を立て、高い建物としたのである、 因みに、この遺物の柱で建てられた神社は1248年に造営されてものである、これの高さは明らかではないが30m位はあったであらう。

 現在の出雲大社の原型は1744年の造営で、高さは24mである。低くなったといえ堂々たる威容を誇る大社である。

2009年4月29日 (水)

寺社随想 伊勢神宮

 伊勢神宮は日本の神社として、最高の格付けを有していることに異存は無いと思う。 然し この神宮の誕生についてはどうであったかを考えてみたい。

 伊勢の地に天皇家の祖先である天照大神を祀ることについては、「日本書紀」の崇人天皇と垂仁天皇の時代のなかで述べられている。 然し書紀のこの時代の記述には疑問が多い。

 私の考えでは、四世紀の終り頃、天皇の時代でいえば応神天皇の時代(紀元380年頃~) 大和王朝がやっと九州から近畿地方迄を一つの統治国家として纏めることが出来た、然し東の方は伊勢・熊野迄で、その東は尾張や東国は異なった勢力を有していたと考えられる。そのため大和王朝として支配の東方の伊勢の地に神社を造営したと考えては如何だらうか。この当時の神社は夫々の地域毎の豪族の長が権力の象徴として、また人心の掌握や統合等の目的で造られていったと考えられる。従って格式の高い神社によって、大和王朝の力がそこに及んでいることを周辺に知らしめる効果を狙ったのである。伊勢神宮の場所には元々地元の神社が有ったようで、これを格上げしたとも伝えられているが、この神社の存在が大和王朝の権力の誇示に大いに寄与していると思う。

 大和王朝はその後約100年後の六世紀に入り、大和朝廷として全国の統合を果たしていき、神宮も東方の限界ではなくなったが、全国版の神社としてその存在は変わることはなかった。

 下って、紀元672年の壬申の乱の時、大海人皇子は吉野を発って東方に向かい、戦勝を祈念して伊勢神宮を遥拝し、東国に入り、尾張の加勢も得て争いに勝ち、天武天皇となった、その後直ちに伊勢神宮に感謝の礼を込めて式年遷宮や斎王の奉仕の制度を設け、伊勢神宮の格式を更に高め現在に至っている。この部分の日本書紀の記述は概ね正しいと思われる。

2009年4月17日 (金)

寺社随想 大宰府天満宮

Sdsc02107  私が九州大宰府天満宮を訪れたのは、雨の日の平日であったが、結構人が参拝に来られていた。さすが天満宮としては京都と並ぶ總本社で人気の高いことが伺えた。

 私がやや異常に感じたのは、参拝者の中に韓国の学生の団体が数組来られており、又中国や東南アジヤからの外人のグループも多く目に付いたことであった。当時首相の靖国神社参拝について、中国や韓国から批判の声が強く、国交問題までに進展していたので、両国の人民は日本の神社参拝にはアレルギーがあるのではないかと考えていたが、見事に裏切られたのである。然し彼らは日本の神社について、良く調べ良く学んで、日本人以上に神の本質を知っているのではないかと、多いに反省させられた

 九州という地の利があるとはいえ、彼らは単に観光だけに天満宮に訪れている訳ではないと思う、基本的には祀られている神を尊敬し、あやかりたいという、多くの日本人と同じ気持ちて参拝していると考られる。良き神は国際的にも表敬されるのである。

 参拝の帰り、グループの人に、言葉が通ずるかどうか分からないが「雨の中、ご苦労さん」と声を掛けた次第です。

2009年4月 6日 (月)

寺社随想 越後龍澤寺

 昨年訪れた寺社に触れなかったが、龍澤寺も秋に訪れていた。先日のNHKの大河ドラマ「天地人」の終りにこの寺が、上杉家ゆかりの寺として紹介されたので、取り上げた。

Simg_0750 龍澤寺は越後の上越国際スキー場の近くで、文殊菩薩をご本尊としてしている。 左程大きな寺ではないが、近くには樺沢城跡もあり、二年前の「風林火山」の時も紹介され、その頃から訪れる人が増え、住職に言わせると「昼寝ができなくなった」そうである。

 上杉家にとっては、樺沢城は重要な拠点であり、龍澤寺も尊重され、謙信公の御朱印状が残されている。 又後日景勝が迎えた武田勝頼の妹菊姫の護身用の薙刀も置かれている。

 これからの大河ドラマの北条との攻防の舞台として、どのように画かれるのか楽しみである。

2009年3月25日 (水)

黒部の太陽を観て

 フジテレビよりドラマ「黒部の太陽」が2日に亘って放映された。当時の大型ダム建造の物語であるが、電力不足の解決のため下した太田垣社長の英断、これを実現した関西電力の面々や現地で工事に関わった方々の苦労の賜物と、改めて頭の下がる思いで観ました。

 数年前宇奈月からトロッコ列車で欅平に行き、そこから大型のエレベータで200メータ上昇し、更にバッテリーカーに引っ張られて急勾配を登り、黒部第四発電所に到着した。この途中にも高熱墜道があり、最高200度の高熱の岩盤にぶつかり、いくら水を掛けても冷えず、熱気と水蒸気に苦しみ、掘り進めた難所もあったと聞いている。

 「黒部の太陽」は大町から黒部ダムに至るトンネル工事の時の破砕帯による水と崩壊に闘ったものであるが、工事全体としては、高熱と鉄砲水という大自然の脅威に集団で立ち向かい、これらを克服した冒険物語でもあったのである。

 ダム建設といえば、ほぼ100年前、1930年代の世界大恐慌のとき、米国はニューデール政策を実施した、この中にTVA計画(テネシー川流域開発)があり、多くのダムや発電所を建造し、落ち込んだ経済を活性化した経緯がある。現在不幸にして巡ってきた100年目の恐慌に際して、経済活性化のための英断を期待したいものである。具体的な一例としてCO2を出さない発電や自動車、消費エネルギーや石油の消費量を大幅に削減する産業に対し、官民一体となりそれらの機器や装置の普及を図るための政策を早期に打ち立てて欲しいものだ。

2009年3月17日 (火)

寺社随想 長野諏訪大社

Simg_0765  昨年最後に訪ねた寺社は諏訪大社の上社本宮である。数年前下社の秋宮を訪ねているが、壮大な美しい神社であったので本宮は更に重厚なものと想像していたが、意外と簡素な建物であった。聞けばご神体は守屋山という山そのものだ相だ。

 ご祭神は建御名方命(タケミナカタノカミ)、この神は出雲の大国主命の子供であるが、高天原より下った武甕槌命(タケミカヅチノミコト)と国譲りをかけ力を競ったが敗れ、諏訪の地に逃げ、もうここからは出ないと宣言し、此れが諏訪大社に神となったのである。 然し諏訪の神社は地方神を祭るものとして古くから有ったとも伝えられている。

 言い伝えは兎も角、諏訪と出雲は日本海をルートにして、弥生時代から交易があったと考えられる。出雲からは鉄器ゃ銅器等当時のハイテクの物が供給され、諏訪からは玉石やその加工品が届けられ、相互に技術や文化の向上に寄与した、こういったことのお礼として古事記の記載に従って、大社が建造され、祭神としたのであらう。

Simg_0769  諏訪大社の特徴の一つが、御柱であるが、この本宮にも立派なものが立てられている(写真右)。この技術も出雲から伝わったのだらうか。

 話は変わるが、神々の力較べは日本書紀には書かれていない、日本書紀では、似た話は垂仁天皇の時代大和に当摩蹶速(タギマノクエハヤ )という天下の力自慢の力士と称していた男がいたが、これを倒さんと出雲から野見宿禰が呼ばれ、闘った結果野見宿禰が勝ち、これが相撲の元祖であると書かれている。

 この2つの話から、天から下ったタケミカヅチノミコトも野身宿禰も朝鮮半島からの渡来人だったと考えるのはどうだらう。もしそうなら高天原は朝鮮半島だったこととなる、弥生時代半島から稲作・鉄器・銅器等多くの技術や文化をもたらされたことを感謝して神の国としたと想像できる。

 古代史として「記紀」に書かれたことから、真実を想像することも楽しいことである。

2009年3月 4日 (水)

寺社随想 滋賀県彦根城・大通寺

Simg_0731 S_2                                                                                   

 昨年の秋、大学の同期会が彦根で催された。懇親会に先立ち彦根城を訪れた。

 表門より入城し、広くて坂道の多い城域内を周囲の建物を見ながら、転ばない様歩き、城内に入ると、急な階段を一気に最上階に登る等やや強行軍であったが、何とかこなす事が出来た。今回はガイド付きで説明も楽しく面白かった。

 城は関ケ原の東西戦の後、近辺の安定のため急遽建造され、近くの明智光秀の居城であった佐和山城を取り壊し、その材料等を利用したが、その工法は立派て、現在建てられたままの姿で残っている数少ない城の一つである。 城を出て名勝・玄宮楽々園という休み処とか庭園のある場所もあり、全体をゆっくり見るには一日はかかる所である。

 翌日は長浜市に赴き、黒壁スクエアでガラス工芸品を眺めた後、近くの大通寺を訪れた。この寺は真宗大谷派別格別院という格式の高いお寺である、1602年の建立であるが、それ以前から寺は有り、蓮如も北陸布教の拠点としていた。大きな堂内には多くの名画も飾られ、立派な庭園(写真右)もある。

 近くには北国街道も走り、歴史を感ぜさせる場所である、広い本堂で他に人が居ないのを幸いに、仲間5~6人で宗教の事・学生時代の事・最近の経済の事等喧喧顎々話し合ったことが思い出せます。

 

2009年2月18日 (水)

寺社随想 京都仁和寺

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 妙心寺を訪れた後、近くの仁和寺に立ち寄った。大きな門構えの入り口を入り、世界遺産登録の看板を横目で見ながら本堂(本坊とか御殿とも呼ばれている)に入った。

 素晴らしく大きな建物で、広々とした石庭風な庭もあり、全体の規模に圧倒された。応神の乱と明治20年と二度の火災で消失し、大正時代に再建されたのであるが、古さも感じさせられた。 途中見学の女子学生が足に木のささくれが入り難渋していたが残念ながら助ける事も出来ず、係の人を呼びに行くハプニングもあった、歩く時は素足になるので摺り足は避けた方が良いでしょう。  

 外に出て宝物殿で暫し心を癒し、再び外に出て散策すると、五重塔があり、又有名な御室の桜の樹林が有った、生憎シーズンは終わり葉桜であったが、樹高は2~3m程で低いのに驚いた。

 もう此れまでかと思ったら、益々奥に沢山の建物や鐘楼が配置されており、とても隅々迄ゆっくり見る元気が無くなり、只々ひたすらに足を運んだ。広大なこの寺を見るには「先達があらまほしきものなり」と感じた次第です。

«寺社随想 京都妙心寺

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