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2011年10月27日 (木)

TPPは第2の黒船来航か

 江戸時代の末期、黒船の来航によって正体不明のまま、開国か攘夷かに世間は大いに揺れた。江戸幕府は開国を朝廷は攘夷を唱え、数々の混乱と抗争の後約15の後朝廷は明治の時代となり、外国の文明開化を受ける状態に変身し、その後の日本の繁栄を迎える礎となった。

 下って現在「TPP」なるものを巡って、これを受けるべきか、断るべきか騒然としている、関係者も世間もこの正体を掴みかねている、受ける方の代表は経済界であり、反対の代表は農業界である、夫々事情は察しられるが日本全体としてどうかとか、国民にとってはどうかとの視線は感じられない。

 歴史は繰り返す、黒船同様何らかの対応が必要である。結局大観すると混乱と痛みの末反対派が賛成を享受する方向に転進することになるであらう。

 幸い日本の優れた品質の農畜産物が、諸外国に認められ国際市場に流通することにより農畜産業が大きく再生興隆することとなり、庶民は安価な外国の作物も選択出来豊かな生活ができれば良いと思う。この変革には多少の時間は掛かろうがその様になってもらいたいものだ。

 TPPと言う黒船は来航してしまったのである、早い事受け入れの意思表示をしその内容を究めてゆくるべきである。

2011年8月13日 (土)

風評汚染

 原発の爆発で飛散した広範囲の放射能汚染が色々な形で不安を投げかけている、これに加えて風評被害も拡がっている。 しかし最近では京都の大文字焼きの陸前高田市の松の木の焼却の実行ついての紆余曲折に至ってはお話にならない愚挙である、私はこの様な現象を風評汚染と呼びたい。

 放射能汚染は「実」であるが、風評汚染は「虚」であり、全く役に立たないものである。 何故この虚がはびこるかの原因は実の説明が不十分であるからである、私は政府の発表が悪いことは勿論としても、汚染の実態の説明が表面的過ぎるマスコミの報道の仕方にも問題がありと思う。先の戦争の時大本営の発表とその報道状況と合い似ている、国民の不安を解く説明が必要である。

 色々と要因があるが一つの具体例を挙げるとベクレルという単位と人体えの影響が全く不明である、よく出てくる1kgあたり500ベクレルの制限値が何シーベルトに相当し人体への影響がどの程度かを都度丁寧に説明し、これを重ねて行けば風評汚染の低減に多少は寄与すると思います。

2011年6月 9日 (木)

寺社随想 京都 清閑寺

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 京都 東山 清水寺の南に清閑寺という山寺がある。観光とは余り縁が無く訪れる人も少ないが、創建は平安時代の802年と古く、かっては清水寺と並ぶ大きな寺であった様だが、現在は小さな本堂と鐘撞堂のみのであるが歴史的には興味深い寺である。

 平家物語に「小督局」(こごうのつぼね)の話がある。 小督は公卿の桜町中納言藤原成範の娘で、美人で琴の名手でもあった、若くして宮中に仕え小督局と呼ばれていた、特に時の天皇高倉帝には覚え目出度くご寵愛を受けていた、然しこの事が天皇の中宮建礼門院徳子の激しい妬みを受け、ことごとに辛く当たられたので密かに御所を抜け出し嵯峨野の嵐山の地に隠れ住んだ。天皇は深く悲しみ近臣源仲国に探す様に命じ、仲国琴の音を頼り無事探し当てることが出来た。ここ迄は良く知られている話であるが、この後が清閑寺に繋がって行く。その後小督は範子内親王を出産するが、徳子の父平清盛の怒りは収まらず、清閑寺にて泣き縋る小督の黒髪を落とし出家させたのである。

 高倉天皇は哀れと思いながら何もすることができなかった、そして21才で若くして亡くなったが自分の墓は清閑寺に造る様遺言し、現在その御陵は寺の隣接地に造られている。 小督は御陵の近くに庵を建て41才て没する迄尼として天皇の菩提を弔ったと伝えられている。                                                             

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2011年4月 5日 (火)

東電原発事故 海水汚染の対応

 政府や安全委員会は現在福島原発からの海水汚染がどの程度進んでいるのかを把握しているのだらうか。原子炉への注水や保管プールへの放水された水はどの様に汚染され流れて行くか考えているのだらうか。

 私の推定では、注水された水は蒸発し炉外へ放出され原子炉建屋内で液化し、地下水となり大部分は海に流れ出ており、一部分がタービン室の地下や周辺のトレンチ等に湧き出ていると思っている。従って残念ながら海はとっくに大量の汚水で汚れていると考えざるを得ない。近海で獲れた「こうなご」が既に放射線を出していることは、10日以上前から取った餌に放射能が有ったと見るべきであろう。

 この垂れ流しの現状を認識し、この悪循環を改善するため冷却系を復旧すること、このためにタービン室の地下の水を取り除くためには一時的に汚水の流出も止むを得ないと考えます。

 どの程度海が汚れるかは発電所近辺だけでなく、10キロから200キロ位にかけて定点観測し、今後の汚染対策の資料とする等の考慮も必要である。この様な測定は既に進んでなければならないが、東電がやっと20日以上経って一部始めた様だが、こんな測定は国を挙げて推し進めるべきである。今更一部の汚水を流水しても汚染の程度は変らないと思う。

 国や安全委員会いや不安全あおり委員会の日和見楽観部隊による泥縄対策では状況は悪い方向に進むだけである。

2011年3月29日 (火)

東電の原発対策

 東京電力福島第一原発のトラブルは深刻となっている。

 然し東電の放射線の測定結果は心配を煽るだけで、対策に結びつく報告が欠如している。例えば今回のトレンチの測定も、水の表面だけで、その周囲の作業空間はどうなのかとか、トレンチの水深5mとか10mではどうか等は報告されていない。

 トレンチの水の大部分は津波による引けなかった海水であり、表面部分は汚染された水と考えられる。若し水深の深い所が汚染されていなければ、その部分の水は直ちに海に返せるる筈である。海水を吐き出せばトレンチの水位は下がり汚染水の一時保管が出来、タービン建屋地下の汚水も流れ出し、電気工事も可能となり、対策が一歩前進する。

 電気の無い電発は血流の無い人間と同じ死を待つだけである。先ずこのことを実現するための作業環境や手段の為の放射線測定を行うべきで、目的不明の脅かしデータは止めて欲しい。

 東電の方がこのブログを見たら検討して欲しいものだ。

2011年1月12日 (水)

「佑」の字について

 斉藤佑樹選手の登場で、「佑」の字をテレビや新聞でお目にかかる機会が増えた。 結構なことである、その理由は私の名前にもこの字を使っているからである。

 戦後から昭和30年代にかけては、佑の字は名前でも使用出来なかった、この為私の子供に付けたかったが認められず、止むを得ず「祐」の字を使用した。 何時頃から佑の字が使用できる様になったのか知らないが、現在は勿論使用出来る。

 然し長期間日陰者扱いにされたこと、更に子供の名前が祐であったため、私の名前も祐と書かれる事が多く、私も「マアショウガナイナ」と諦めと悟りを開いていた。

 最近佑の字もメジャーとなったので、改めて今年の年賀状を見てみると、誤字は有るわ有るはの情けなさでした。

 一言つぶやきたくて書いてみました。

2010年8月19日 (木)

日本の最初を求めて 素麺

 箸墓古墳のあたりから三輪の里に入り、素麺の製造会社が散見される様になる、ここは日本で最初に素麺が製造された所である。この素麺が生れる迄の歴史を紹介し、併せて倭国の誕生の歴史を総括し、この旅行随想の後書きとしたい。

 素麺の製造者は三輪にある大神神社(おおみわじんじゃ)を崇拝している、これはこの神社の祭祀である大物主命(おおものぬしのみこと)の話から始まる。大物主命は日本書紀では大国主命の和魂(にぎたま)とされているが、正体不明の神か人かどうかもよく分からない存在である。

 話はやや反れるが、出雲では2千年程前からスサノオの命が朝鮮半島の文化として農業・林業それに鉄や銅の金属加工技術等を取り入れ、大国主命の時代には出雲の経済を豊かに育成していた。大物主命は紀元200年頃、出雲より大和の地に移り、大和の地に農業・林業・金属の加工技術等を普及させた人または一族の長だと私は推定する。

 大物主命が普及させたものの一つに小麦の栽培があった、この人の娘が「太田田根子」であるが、この子孫が代々職を継ぎ、12世孫の狭井久佐が、宝亀元年(紀元77〇年)それ迄の小麦の品種の改良、小麦粉の加工方法の考案等の技術を結集し、素麺の原型を作りあげることに成功した。この時の名前は牽餅(むぎなわ)と呼ばれ現在の手延べ素麺とは相当異なっていると思うが素麺の原型とされ、三輪の地で生れたのである。

 小麦の栽培から約500年以上の歳月をかけ、あの細くて長い、しかもコシある食品に仕上げたのである。 この素麺誕生の話は、私の実家が素麺の製造に携わっていて、私の兄が昭和51年に発行した「淡路そうめん」なる冊子から引用している。 因みに淡路での素麺製造は大正7年より始まり、この時三輪明神を建立し大神神社のご神体を迎えたとされている。淡路の素麺は、逸早く品種の層別を行い、これをラベルに表示し品質の保証を行った、優秀な品種は 1915年のサンフランシスコ万博に出品し金賞を獲得した実績がある、現在でも良い品は京阪神の一流料亭で使われていて、実に食べ応えのある素麺である。

 さて話は大きく変るが、紀元200年頃の大和は、天皇家の遠祖となる豪族、日本書紀では崇神天皇に相当するが、物部家や大伴家の軍事力に護られ、又大物主命を代表とする、出雲の文化や技術で経済力をつけ、これ等の力を纏向の地(まきむく桜井市にあり、石上神宮と大神神社を結ぶ線上にある地)で統括し、倭国の始まりであり、発芽となった。

 この芽がどんどん勢力を伸ばし、強固な集団として大きく成長して行く、約200年後の紀元400年頃応神天皇の時代更に発展させ、紀元500年頃継体天皇の時代近畿地方を纏めて大和朝廷の確立へと発展し、次の飛鳥時代となり花が開いた。

 日本誕生から大和朝廷確立迄を、素麺と同列には考えられないが、数100年かけて何代にも亘って多くの関係者により育成された歴史を感じさせられる。中国等多くの国では君主の代わる毎に、先代の文化を破壊する歴史の国とは大きく異なり、これが我が国の素晴らしさとなっていることは自慢して良いと思う。このため中国や朝鮮で見出せない遺物も数多く残されている。

2010年8月12日 (木)

日本の最初を求めて 箸墓古墳

Simg_1148  今回の旅行の最後の訪問地は箸墓古墳である。

 古墳に祀られているのは「倭迹々日百襲姫命」(やまとととひももそひめのみこと)と云う長ったらしい、舌をかむ様な名前であるが、この古墳は巨大前方後円墳としては最初で3世紀後半頃に造られたものとして有名である。前方後円墳全体としても10番迄には入る。

 やまと姫は孝霊天皇の皇女で崇神天皇の叔母にあたるが、崇神天皇の時代、凶作や疫病が流行り、多くの死者が出た、この時姫には特別の霊力があり、天皇に何かと助言しこの結果世の中は安泰となったと言う経過があり、又謎の神大物主命(おおものぬしのみこと)の妻となったが、オオモノ主は正体が分からず、調べたところ蛇の化身であったことに驚き箸でホト(陰部)を突き刺し死亡したという謎の多い女性てある。箸墓の名はこれに由来している。

Simg_1150  オオモノ主は出雲の大国主命の関係者で、大和地方に出雲の力を隠然と示しこれまた謎の人物(神ではなかったと思う)であった、従って謎の多いやまと姫は手厚く葬られ、当時の天皇同様、この様な巨大古墳に祭られていろのであらう。

 古墳は現在は半分となった周濠に囲まれ立派な佇まいであるが、その正面は写真の如く簡素なものである、正面に沿った小道の後ろは田圃で前庭等無い。当然宮内庁の所管で観光など以ての外との扱いを感じた。歴史的には名だたる古墳で卑弥呼の関西説の拠点でもあるが現場は淋しいものでした、30分程観光していたが、この間に訪ねてきた観光客は1組であった。 

2010年8月 9日 (月)

日本の最初を求めて 山の辺の道

Simg_1141Simg_1142_2  日本で最古の道として知られている山の辺の道は、天理の石上神宮を中継点として、奈良の方に向かう北コースと、桜井の方に向かう南コースがある。何れも現在は古代を偲ぶハイキングコースとして有名である。

 今回私は石上神宮より南コースを自転車で走った、道は舗装はされていないが、踏み固まり、道幅も適当に広く、自転車で走るのが最適である、勿論車やバイクは走れないので安全でもある。道の起伏は多少あるが、長い登り道等は無い、これはこの道は山の裾野部分を縫う様に造られているためで、文字通り山の辺に沿った道である。

 暫く走ると、夜都伎(やとぎ)神社と云う面白い名前の神社に到着した、美しい千木を冠した社殿が3棟も有ったのには驚いた、春日大社と関連のある神社の様だ、木陰の豊かな境内で昼食を取っているグループを2、3見たが楽しそうでした。

Simg_1144  竹之内環濠集落を眺め苦労の跡を偲び、更に南下すると古刹で知られている長岳寺がある、弘法大師が開いたとされ、我が国最古の玉眼佛である阿弥陀三尊像がご本尊である。シーズンによって色々な花が咲き誇る花の寺としても有名であるが、この時期花には恵まれなかった。 素麺が初めて作られた三輪の里に近く、ここでの昼食の素麺は旨かった。

 ここで山の辺の道に別れを告げ、国道169号を南下し、箸墓に向かった。

2010年8月 2日 (月)

日本の最初を求めて 石上神宮

Simg_1139  石上神宮(いそのかみじんぐう)は崇神天皇の時代に設立された日本で最初の神宮とされ、その歴史は古い。

 祭神は布都御魂大神で、その神の剣を神霊としている。この剣は神武天皇の東征の時、熊野の地で倒れていた一行が、この剣を神より授かり奮い立たせたとされている。後に物部家が氏神となり、天皇家を守る軍隊の拠点として武器庫の役も務めていた様である。

 今この剣が存在しているかどうかは不明であるが、先に述べた如く百済から贈られた「七支刀」は保管されている。

 天皇家に贈られた物が何時如何なる事由で物部家に下賜されたか、記録には無いが現物が軌跡的に存在している。私の推定では、本来この刀は百済を援軍した物部氏に、直接渡されたのではないかと思う。寧ろ軍隊を統括している物部家としては、この時代のハイテクの刀を手に入れ、強さのシンボルとして利用するため百済にお願いしたものと思うが如何なものか。尤も応神天皇の子で後の仁徳天皇が子供の頃この刀が気に入り遊びに使っていたとの話もある。

«日本の最初を求めて 七支刀

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