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2006年11月30日 (木)

私の出雲国物語

 出雲の国の歴史について私見を述べたい。

 出雲の地に人類が住み始めたのは、他の日本国内と同様数万年前で、当時は大陸と地続きで、人の移動は容易であった。 約1万年前に、大陸と切り離なされ、その後大部分の移動は朝鮮より九州のルートであったが、一部の人は隠岐の嶋を経由して出雲の地に渡った、然しこのルートは、海路も永く困難なものであったと思う、幸い出雲の地の南側は中国山脈があり、他の地方からの流入も殆ど無かったので、たどり着いた人々を暖かく迎えた、又それらの人々は逆境にも耐えたので体力智力共に優れた人が多かったのである。 このあたりのことを、比喩した話が「因幡の白兎」なのである。

 この素晴らしい人々が、稲作を持ち込んだのは、約3000年前で、これにより、狩猟中心の生活から農耕中心の生活となり、定住する様になり、家族から小グループ、部落と段々規模を大きくしてゆき、更には部族集団となり、之を取り仕切った豪族が「大国主命」を代表とする一族であった。 これが弥生時代中期のAD100年頃である。

 更にこの部族は、交流のあった、日本海沿岸の山陰、北陸、そして新潟、長野を統括する部族国家に成長して行った、これが出雲王国と呼ばれるもので、弥生後期から古墳時代ののAD200年~400年に栄えたのである。 この様に早期に国家を形成出来たのは、いち早く鉄器の製造技術を手に出来たからからで、これにより強い武器を得、又鉄の強さを利用し、例えば木の柱を繋ぎ、高い柱を建て、人々を威圧することができたり、高い見張りで情報を得やすくした等である、出雲王国は他の豪族と違って、互いに争うことなく、鉄の強さの元に、結束していったのである、ここでも幸いなことは、先にも述べたが、国の南側には山々があり、その後台頭してきた、九州、吉備、大和等とは干渉されなかったのである。

 話は変わるが、後年徳川時代の頃、加賀の国が徳川の圧力を受けずに、独自の政治や文化を築いたのと似ていたのである。

 さて、よく分からないことは、この出雲の国が何時頃から、どのようにして大和朝廷の野に下ったかである、日本書紀には、天孫降臨の前に国譲りの話があったり、崇神天皇の時代に制圧された話があるが疑わしい。前回述べたように、古墳もAD500年を越すものもあり、現在その象徴の一つである、出雲大社は平安時代、雲太と呼ばれ48mの高さを誇っていたのである。

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コメント

いま、籔田紘一郎著「ヤマト王権の誕生」が密かなブームになっていますが、
それによると大和にヤマト王権が出来た当初は鉄器をもった出雲族により興
されたとの説になっています。
 そうすると、がぜんあの有名な山陰の青銅器時代がおわり日本海沿岸で四隅突出墳丘墓
が作られ鉄器の製造が行われたあたりに感心が行きます。当時は、西谷と
安来-妻木晩田の2大勢力が形成され、そのどちらかがヤマト王権となったと
考えられるのですがどちらなんだろうと思ったりもします。
 西谷は出雲大社に近く、安来は古事記に記されたイザナミの神陵があるので神話との関係にも興味がわいてきます。

島根考古学ファン 様
 コメント有難う、私は出雲を知っている人ではありませんが、古代日本に於いて極めて重要で、不思議な存在として関心を持っています。
 その後色々調べた結果を、私のブログの平成20年9月以降に随時発表していますので、一度読んで
みて下さい。
 私見が当たっているかどうかわかりませんが、貴方は専門に調べられている様ですので、何か参考になることが有れば、教えていただければ幸いです。
       yusaku

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