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2010年7月29日 (木)

日本の最初を求めて 七支刀

Photo  今回の奈良観光の目玉は、天理市の石上神宮(いそのかみじんぐう)で秘蔵されている国宝「七支刀」( しちしとう)の拝観である。

 平城遷都 1300年の記念行事の一つとして、殆ど公開されない神刀が特別公開されるとのPRを見て、かねてより一度は見てみたいと思っていたので、早速申し込み、承認されたので、今回の一連の観光を計画した。 幸い私の高校の同窓で同郷の友人の同行をお願いし、快諾を得たので2人で膝栗毛を繰り広げることとなった。

 七支刀の拝観は3日目の最初の行事であるが、今日は天候に恵まれそうなので、天理の駅頭でレンタサイクルを借り、石上神宮に向かった。天理市は云わずと知れた天理教創価学会の総本山の場所で、道中の大部分はこの関連施設を通り抜けることで、その壮大さは大した物である。その奥の方へ暫く坂道を登ると石上神宮に到着した。

 見学のグループは50人で、先ずお祓いを受け、神刀に接することが許される、その後簡単な説明を受け、刀を飾っている部屋に通された。

 七支刀は写真の如く特殊な形状をしているが、中央部の刀身の表裏に全部で61の文字が金象嵌されており、この刀の製造年や造られた目的等が記述されている。簡単に述べると、泰和4年(中国の年号で紀元369年) 朝鮮の百済の王が、倭国の王に贈ったとのことである。

 この事は日本書紀には詳しく説明されている、紀元372年 倭国からの援兵により百済は新羅を制圧することが出来た、これにより百済の肖古王がそのお礼として、倭国の神功皇后に贈ったとされている。このことから、私は歴史書に裏打ちされた日本の最初て最も古い遺物であると位置付けている。

 日本書紀によればこの刀と同時に七子鏡が贈られたこととなっているが、この鏡は現在ボストン美術館が保有している様であるが詳細は知らされていない。然し刀だけでもこの様に保存されていることは好運なことで奇跡と云えるのではないだらうか。

2010年7月20日 (火)

日本の最初を求めて 甘樫丘

Simg_1119jpg1  飛鳥の町並みを南に見下ろす場所に甘樫丘(あまかしのおか)がある、標高 148mの小高い丘である。 現在丘全体は飛鳥公園に指定されているので住居は無く、人は住んでいない。

 然し嘗て此処に豪邸を建て住んでいた人が居る、それは蘇我蝦夷と蘇我入鹿の蘇我一族である、邸宅と同時に外敵にも備えた、当時の朝鮮から新しい建築方式を取り入れた立派なものであった様だ。しかし紀元645年の乙巳の変(いっしのへん)で馬子が殺害された時、後難を恐れて曽我一族が邸宅を焼き払ったのである。

 この時残念なのは、それ迄の倭国の歴史を書き留めたものが、ここて総て灰燼に帰したことである。 どの様な内容で真偽もよく分からないが、その後100年位経って書かれた日本書紀や古事記が最も古い歴史書となっている現在、これ等の資料が有れば日本の古代史も大きく変っていたかも知れないので、返す返すも残念なことである。

 丘の上の展望台よりは周辺の町の様子が良く分かり、大和三山である天の香具山・畝傍山(写真)・耳成山も真近に眺められる絶好の場所である。

 明治の時代以降、横浜の山手や神戸の北野に外人が、高台に当時としての豪邸をを建て居住していた跡が現在も残されているが、蘇我家の甘樫の邸宅はこの様な外人系の高台住居の日本の最初のものとして考えることが出来よう。近年甘樫丘東麓遺跡で住居跡と思われる遺跡も発見されている、これからも何かと新しい発見がある事を期待したい。

 午前中の雨で今日は登れないかと思っていたが雨もも上がり、青空が広がり、絶好の状態で丘の上に立って、吹く風に古代から吹いていたものと共感を覚え、なんとも云えない心地よさ、懐かしさを味わう事が出来たのは幸いでした。

2010年7月16日 (金)

日本の最初を求めて 石舞台古墳

Simg_1113  飛鳥を代表する遺跡の一つとして石舞台古墳がある。

 石を組み合わせて造られた墓は朝鮮半島では多く見られる様だが、これ程巨大なものはあるのだらうか。

 半島出身の蘇我萬智の末裔として蘇我家を統括し、更に日本の政治を牛耳る迄強力になった蘇我馬子の墓とされている。Simg_1112 半島の習慣に従い、又勢力を鼓舞するためこの様な巨大墳としたのであらうか。 石室内も広々しており 巾3.4m奥行き7.8m高さ4/7mだそうで、盗掘に会ったため棺等は無くなっているので、一寸した遊びが出来る広さがある。

 この種の古墳としては、日本の最初のものと思う。

 この頃から雨は上がり、空も青さが広がってきた、自転車は無くなったがバスが頻繁に走っているので、何とか観光は出来そうだ。

2010年7月12日 (月)

日本の最初を求めて 高松塚古墳

Simg_1106  奈良観光の初日は葛城氏市の當麻地区を巡ったが、2日目は飛鳥を回ることとした。

 駅頭でレンタサイクルを借り、先ず高松塚古墳を訪れた、約10年前にも同様に訪れたが、1m程の畦道をたどりやっと塚の丘の下に辿り着いた記憶があるが、今は立派なアプローチ通路が出来ている、但し自転車は遥か離れた所に置き、テクテク歩いて着いた、丁度雨が降り始め天候には恵まれなかった。

 以前は丘の下から古墳の有ったと思われる場所を見上げるだけで、鬱蒼たる樹木に覆われていた。 今はほぼ頂上迄登れる、そして古墳の土盛が造られていた。今昔の感があったが、何れが良かったかは考えさせられる。

 高松塚古墳は石室の壁画で一躍有名となったが、この種の古墳としては、その後キトラ古墳が発見され2例はあるが高松塚古墳の方が古く、日本最初のこの種の古墳といえよう。

 今も古墳の内部には当然入室することは出来ず、近くの壁画館で資料を見ることしか出来ない、壁画そのものも発見された時には鮮やかな色彩であったが、自然の保存能力より、人工の保存技術が劣り、数十年で退色変色してしまったことは残念なことである。

 雨は段々激しくなり、とてもサイクルツアーは出来ず、飛鳥の駅で返却し、この後はバスを乗り継いで観光することとした。

2010年7月 5日 (月)

日本の最初を求めて 竹内街道

Simg_1099  竹内街道(たけのうちかいどう)は推古天皇の時代612年に、中国や韓国等大陸からの文物を難波から飛鳥に運ぶべきルートとして、水路ではなく造成された我が国最初の官道で、言い換えれば日本最初の国道である。

 当麻寺から南方に2キロメータ程歩くと、元来の官道の一部が残されている。 道幅約4メータで今は舗装されて一般道となっている、従って造成された時の面影は無い。

 この街道に添っての両側には立派な豪邸が軒を並べ約1キロ程が観光散策道路となっている。

Simg_1101  瓦葺の屋根には、鬼瓦や色々な動物を画いた飾り瓦が配置されており見る人の心を慰めてくれる、茅葺の家も見受けられる、雨樋も昔風の銅板製が多く豪華さを加えている。

 殆どは木造の建物で聞けば昭和の時代に建て直されたものだそうだ。想像するに永い歴史の中では通行する人や動物のお休み所や食事所として繁栄し、その名残を現在に留めているような気がする。

  Simg_1100

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