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2010年8月19日 (木)

日本の最初を求めて 素麺

 箸墓古墳のあたりから三輪の里に入り、素麺の製造会社が散見される様になる、ここは日本で最初に素麺が製造された所である。この素麺が生れる迄の歴史を紹介し、併せて倭国の誕生の歴史を総括し、この旅行随想の後書きとしたい。

 素麺の製造者は三輪にある大神神社(おおみわじんじゃ)を崇拝している、これはこの神社の祭祀である大物主命(おおものぬしのみこと)の話から始まる。大物主命は日本書紀では大国主命の和魂(にぎたま)とされているが、正体不明の神か人かどうかもよく分からない存在である。

 話はやや反れるが、出雲では2千年程前からスサノオの命が朝鮮半島の文化として農業・林業それに鉄や銅の金属加工技術等を取り入れ、大国主命の時代には出雲の経済を豊かに育成していた。大物主命は紀元200年頃、出雲より大和の地に移り、大和の地に農業・林業・金属の加工技術等を普及させた人または一族の長だと私は推定する。

 大物主命が普及させたものの一つに小麦の栽培があった、この人の娘が「太田田根子」であるが、この子孫が代々職を継ぎ、12世孫の狭井久佐が、宝亀元年(紀元77〇年)それ迄の小麦の品種の改良、小麦粉の加工方法の考案等の技術を結集し、素麺の原型を作りあげることに成功した。この時の名前は牽餅(むぎなわ)と呼ばれ現在の手延べ素麺とは相当異なっていると思うが素麺の原型とされ、三輪の地で生れたのである。

 小麦の栽培から約500年以上の歳月をかけ、あの細くて長い、しかもコシある食品に仕上げたのである。 この素麺誕生の話は、私の実家が素麺の製造に携わっていて、私の兄が昭和51年に発行した「淡路そうめん」なる冊子から引用している。 因みに淡路での素麺製造は大正7年より始まり、この時三輪明神を建立し大神神社のご神体を迎えたとされている。淡路の素麺は、逸早く品種の層別を行い、これをラベルに表示し品質の保証を行った、優秀な品種は 1915年のサンフランシスコ万博に出品し金賞を獲得した実績がある、現在でも良い品は京阪神の一流料亭で使われていて、実に食べ応えのある素麺である。

 さて話は大きく変るが、紀元200年頃の大和は、天皇家の遠祖となる豪族、日本書紀では崇神天皇に相当するが、物部家や大伴家の軍事力に護られ、又大物主命を代表とする、出雲の文化や技術で経済力をつけ、これ等の力を纏向の地(まきむく桜井市にあり、石上神宮と大神神社を結ぶ線上にある地)で統括し、倭国の始まりであり、発芽となった。

 この芽がどんどん勢力を伸ばし、強固な集団として大きく成長して行く、約200年後の紀元400年頃応神天皇の時代更に発展させ、紀元500年頃継体天皇の時代近畿地方を纏めて大和朝廷の確立へと発展し、次の飛鳥時代となり花が開いた。

 日本誕生から大和朝廷確立迄を、素麺と同列には考えられないが、数100年かけて何代にも亘って多くの関係者により育成された歴史を感じさせられる。中国等多くの国では君主の代わる毎に、先代の文化を破壊する歴史の国とは大きく異なり、これが我が国の素晴らしさとなっていることは自慢して良いと思う。このため中国や朝鮮で見出せない遺物も数多く残されている。

2010年8月12日 (木)

日本の最初を求めて 箸墓古墳

Simg_1148  今回の旅行の最後の訪問地は箸墓古墳である。

 古墳に祀られているのは「倭迹々日百襲姫命」(やまとととひももそひめのみこと)と云う長ったらしい、舌をかむ様な名前であるが、この古墳は巨大前方後円墳としては最初で3世紀後半頃に造られたものとして有名である。前方後円墳全体としても10番迄には入る。

 やまと姫は孝霊天皇の皇女で崇神天皇の叔母にあたるが、崇神天皇の時代、凶作や疫病が流行り、多くの死者が出た、この時姫には特別の霊力があり、天皇に何かと助言しこの結果世の中は安泰となったと言う経過があり、又謎の神大物主命(おおものぬしのみこと)の妻となったが、オオモノ主は正体が分からず、調べたところ蛇の化身であったことに驚き箸でホト(陰部)を突き刺し死亡したという謎の多い女性てある。箸墓の名はこれに由来している。

Simg_1150  オオモノ主は出雲の大国主命の関係者で、大和地方に出雲の力を隠然と示しこれまた謎の人物(神ではなかったと思う)であった、従って謎の多いやまと姫は手厚く葬られ、当時の天皇同様、この様な巨大古墳に祭られていろのであらう。

 古墳は現在は半分となった周濠に囲まれ立派な佇まいであるが、その正面は写真の如く簡素なものである、正面に沿った小道の後ろは田圃で前庭等無い。当然宮内庁の所管で観光など以ての外との扱いを感じた。歴史的には名だたる古墳で卑弥呼の関西説の拠点でもあるが現場は淋しいものでした、30分程観光していたが、この間に訪ねてきた観光客は1組であった。 

2010年8月 9日 (月)

日本の最初を求めて 山の辺の道

Simg_1141Simg_1142_2  日本で最古の道として知られている山の辺の道は、天理の石上神宮を中継点として、奈良の方に向かう北コースと、桜井の方に向かう南コースがある。何れも現在は古代を偲ぶハイキングコースとして有名である。

 今回私は石上神宮より南コースを自転車で走った、道は舗装はされていないが、踏み固まり、道幅も適当に広く、自転車で走るのが最適である、勿論車やバイクは走れないので安全でもある。道の起伏は多少あるが、長い登り道等は無い、これはこの道は山の裾野部分を縫う様に造られているためで、文字通り山の辺に沿った道である。

 暫く走ると、夜都伎(やとぎ)神社と云う面白い名前の神社に到着した、美しい千木を冠した社殿が3棟も有ったのには驚いた、春日大社と関連のある神社の様だ、木陰の豊かな境内で昼食を取っているグループを2、3見たが楽しそうでした。

Simg_1144  竹之内環濠集落を眺め苦労の跡を偲び、更に南下すると古刹で知られている長岳寺がある、弘法大師が開いたとされ、我が国最古の玉眼佛である阿弥陀三尊像がご本尊である。シーズンによって色々な花が咲き誇る花の寺としても有名であるが、この時期花には恵まれなかった。 素麺が初めて作られた三輪の里に近く、ここでの昼食の素麺は旨かった。

 ここで山の辺の道に別れを告げ、国道169号を南下し、箸墓に向かった。

2010年8月 2日 (月)

日本の最初を求めて 石上神宮

Simg_1139  石上神宮(いそのかみじんぐう)は崇神天皇の時代に設立された日本で最初の神宮とされ、その歴史は古い。

 祭神は布都御魂大神で、その神の剣を神霊としている。この剣は神武天皇の東征の時、熊野の地で倒れていた一行が、この剣を神より授かり奮い立たせたとされている。後に物部家が氏神となり、天皇家を守る軍隊の拠点として武器庫の役も務めていた様である。

 今この剣が存在しているかどうかは不明であるが、先に述べた如く百済から贈られた「七支刀」は保管されている。

 天皇家に贈られた物が何時如何なる事由で物部家に下賜されたか、記録には無いが現物が軌跡的に存在している。私の推定では、本来この刀は百済を援軍した物部氏に、直接渡されたのではないかと思う。寧ろ軍隊を統括している物部家としては、この時代のハイテクの刀を手に入れ、強さのシンボルとして利用するため百済にお願いしたものと思うが如何なものか。尤も応神天皇の子で後の仁徳天皇が子供の頃この刀が気に入り遊びに使っていたとの話もある。

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