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2009年4月29日 (水)

寺社随想 伊勢神宮

 伊勢神宮は日本の神社として、最高の格付けを有していることに異存は無いと思う。 然し この神宮の誕生についてはどうであったかを考えてみたい。

 伊勢の地に天皇家の祖先である天照大神を祀ることについては、「日本書紀」の崇人天皇と垂仁天皇の時代のなかで述べられている。 然し書紀のこの時代の記述には疑問が多い。

 私の考えでは、四世紀の終り頃、天皇の時代でいえば応神天皇の時代(紀元380年頃~) 大和王朝がやっと九州から近畿地方迄を一つの統治国家として纏めることが出来た、然し東の方は伊勢・熊野迄で、その東は尾張や東国は異なった勢力を有していたと考えられる。そのため大和王朝として支配の東方の伊勢の地に神社を造営したと考えては如何だらうか。この当時の神社は夫々の地域毎の豪族の長が権力の象徴として、また人心の掌握や統合等の目的で造られていったと考えられる。従って格式の高い神社によって、大和王朝の力がそこに及んでいることを周辺に知らしめる効果を狙ったのである。伊勢神宮の場所には元々地元の神社が有ったようで、これを格上げしたとも伝えられているが、この神社の存在が大和王朝の権力の誇示に大いに寄与していると思う。

 大和王朝はその後約100年後の六世紀に入り、大和朝廷として全国の統合を果たしていき、神宮も東方の限界ではなくなったが、全国版の神社としてその存在は変わることはなかった。

 下って、紀元672年の壬申の乱の時、大海人皇子は吉野を発って東方に向かい、戦勝を祈念して伊勢神宮を遥拝し、東国に入り、尾張の加勢も得て争いに勝ち、天武天皇となった、その後直ちに伊勢神宮に感謝の礼を込めて式年遷宮や斎王の奉仕の制度を設け、伊勢神宮の格式を更に高め現在に至っている。この部分の日本書紀の記述は概ね正しいと思われる。

2009年2月18日 (水)

寺社随想 京都仁和寺

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 妙心寺を訪れた後、近くの仁和寺に立ち寄った。大きな門構えの入り口を入り、世界遺産登録の看板を横目で見ながら本堂(本坊とか御殿とも呼ばれている)に入った。

 素晴らしく大きな建物で、広々とした石庭風な庭もあり、全体の規模に圧倒された。応神の乱と明治20年と二度の火災で消失し、大正時代に再建されたのであるが、古さも感じさせられた。 途中見学の女子学生が足に木のささくれが入り難渋していたが残念ながら助ける事も出来ず、係の人を呼びに行くハプニングもあった、歩く時は素足になるので摺り足は避けた方が良いでしょう。  

 外に出て宝物殿で暫し心を癒し、再び外に出て散策すると、五重塔があり、又有名な御室の桜の樹林が有った、生憎シーズンは終わり葉桜であったが、樹高は2~3m程で低いのに驚いた。

 もう此れまでかと思ったら、益々奥に沢山の建物や鐘楼が配置されており、とても隅々迄ゆっくり見る元気が無くなり、只々ひたすらに足を運んだ。広大なこの寺を見るには「先達があらまほしきものなり」と感じた次第です。

2009年2月 2日 (月)

寺社随想 京都妙心寺

 昨年の春、京都の妙心寺を訪れた、京都の中心より西北の方向であるが、嵐山の手前の方である。 美しい庭園があるとのことで訪れた、成程広い緑の草木野中に渓流や池があり、これを回遊する様になっている、又別に石庭もあり立派なものである。この庭はそれ程古いものでなく、明治の時代に造られたことは後で知ったが、全体として構想の規模も大きく、心の和む場を提供している。

 方丈に入ると、大勢の学生が法話を聞いていたが、その一角にかの有名な[瓢鮎図」(ひょうねんず 鮎の実体は鯰である)Simg_0647 Simg_0642 がさりげなく飾られていた。

私は「瓢箪鯰」の言葉は何とか知っていたが、その意味は知らなかった、又画がそのルーツであることは勿論知らなく、この絵がルーツかと感動を覚えた。

 修行を積めば一見不可能と思われる、掴み所の無い鯰でも瓢箪で捕らえることが出来る、修行に精進し立派なお坊さんになりなさいと教えているものだと判った。

 この考えは技術にも通用すると思う、不可能と思われることに執念し、こつこつと事実を蓄積し、遂に達成出来た技術が本当の技術で、世界にその技を誇れるものとなるのである。時には「瓢箪から駒」の発想の転換も必要なことである。

2009年1月 7日 (水)

雲洞庵の思い出

U1 U2今年のNHKの大河ドラマ「天地人」の第1回で越後の「雲洞庵」が舞台の一部に取り上げられていた。3年前頃同寺を訪ねたことを思い出した。

 雲洞庵は藤原不比等の子藤原房前の母が庵を結んだ由緒あるもので、後年上杉家により曹洞宗の禅寺となった。入り口の赤門(写真上)を入ると、戦乱の時代経文を保護するため石畳の下に敷いたので、その上を踏むと良いとされる石畳の奥に大きな本堂(写真下)がある。

 境内は広い庭や、離れの建物も散在し、杉林の中で巌そかな雰囲気が漂っている。又宝物や書画も豊富に展示されている、義経弁慶の一行が平泉に落ち延びる時に立ち寄り写経の祈願をしている。

 ここが教育の場であることは知らなかったが、それに相応しい場所である。

2008年5月 8日 (木)

構成吟の投稿終了

 約一年余りにかけて私の制作した構成吟の発表は、前回の投稿で一応終了とします。 ご覧いただいた方々には感謝します。

 今後このブログには、日本の古代史について、。私のささやかな知り得たことに、大胆な推定したものを逐次発表していきたいと考えています。 誰かの学説でなく、ユニークなものと思っています。

2008年4月18日 (金)

物語吟詠「楊貴妃」 下

 その後、玄宗は権力を取り戻しましたが、今は楊貴妃は居なく、寂しさの空しい日々で、宮中の太液池の蓮の花を見ては楊貴妃の顔を浮べ、柳の枝は眉の様に思われた。

詩  帰り来たれば 池苑皆旧に依る

   太液の芙蓉 未央の柳

   芙蓉は面の如く 柳は眉のごとし

   此れに対して如何ぞ 涙の垂れざらん

 玄宗は、段々と楊貴妃の幻を追って仙女の世界に彷徨い、その幻想の中で楊貴妃が真珠のすだれや銀の屏風から姿をあらわし、ふわりとした美しい髪はしどけなく垂れ、花の冠も正さぬまま、あたかも羽衣の舞姿となっていた。

 そして天上にあっては、比翼の鳥となり、地上にあっては、連理の枝ととなり、何時までも夫婦でいたいものと、二人の離別は何時までも長い恨みとなって尽きることはないであらう。

詩  雲鬢半ば偏りて 新たに睡りより覚め

   花冠調えず堂を下りて来る

   風は仙袂を吹いて 瓢颻として挙がり

   猶お霓裳(げいしょう)羽衣の舞に似たり

   天に在りては願わくば 比翼の鳥と作り

   地に在ては願わくば 連理の枝と為らん

   天長く地久しきも 時有りて尽く

   此の恨みは綿々として 尽くる期無からん    

2008年4月15日 (火)

物語吟詠「楊貴妃」 中

 楊一族は実権を我が物とし、民衆は悪政に苦しめられました。 この時、突如として安禄山が反乱を起こしました。 皇帝も安楽の夢を吹き飛ばされてしまい、戦火に追われて長安を捨て、西南の地、蜀の国へと落ち延びていきました。

詩  漁陽(ぎょよう)の兵鼓地を動かして来たり

   驚破す 霓裳羽衣(げいしょううい)の曲

     九重の城闕(じょうけつ) 煙塵生じ

   千乗万騎 西南に行く

 落ち延びる途中、楊貴妃が、逆臣安禄山と通じていたことが発覚し、哀れ楊貴妃は、家臣の怒りを抑えることが出来ず、皇帝の馬の前で三十八才の短い一生を閉じたのでした。 

 花のかんざしは地に捨てられたまま拾う者もいなく、皇帝は顔を覆うばかりで救うことも出来ませんでした、そして振り返って見ては血の涙を流すのでした。

詩  宛転(えんてん)たる峨眉 馬前に死す

   花鈿地に棄てられて 人の収むる無し

   君主面(おもて)を掩いて 救い得ず

   回(かえ)り看(み)れば 血涙相和して流る

   

2008年4月 8日 (火)

物語吟詠「楊貴妃」 上

 今から約千二百年前の中国、唐の時代、時の皇帝は美人を好み、国を傾ける程の美女を得たいと思い、長年探していましたが得られませんでした。 この時楊(よう)という家に娘が一人、深窓に育てられてられ、その存在を誰にも知られず大人になっていました。

 唐の皇帝玄宗と、傾国の美女と謡われた楊貴妃を詠んだ、白楽天の長編の詩「長恨歌」(ちょうごんか)はこの様に書き出されています。

詩   長恨歌   白楽天

   漢皇色を重んじて 傾国を思う

   御宇多年求むれど 得ず

   楊家に女有り 初めて長成す

   養われて深閨に在り 人未だ識らず

 しかし、天はそのまま埋もれさせておくはずも無く、ある日突然選ばれて、皇帝のお側に侍ることとまりました。 彼女が微笑むと、なまめかしさが溢れ、後宮三千の美女達も色褪せてしまう程でした。

 貴妃とは、正室に次ぐ第一側女の地位を指し、楊貴妃は玄宗の寵愛を独り占めにしました。

詩  一朝選ばれて 君王の側に在り

   眸を廻らして一笑すれば 百媚生ず

   六宮の粉黛 顔色無し

   後宮の佳麗 三千人

   三千の寵愛 一身に在り

 春はまだ寒く、皇帝は彼女に華清宮の温泉に湯浴みをすることを許した。 芙蓉の花の帳の中は暖かく、愛をかわす春の日は忽ちに過ぎ、日が高く昇って、ようやく起き出すという様で、皇帝は政治をすっかり忘れてしまいました。

詩  春寒くして浴を賜う 華清の池

   温泉水滑らかにして 凝脂を洗う

   芙蓉の帳暖かにして 春宵を渡る

   春宵短きに苦しみ 日高くして起き

   此れより君王 早朝せず

   歓を承け宴に侍して 閑暇無し

   

2008年4月 4日 (金)

構成吟「辺塞の詩」 下 

 何時の世でも別れは悲しい、まして辺塞の地へ旅立つ友を送ることは一層の感慨があったであらう。

 今朝の雨で渭城(いじょう)の柳も塵を洗われ青々と色鮮やかになっている、さあ君、もう一杯の酒を飲もう、西の方陽関を過ぎれば最早親しい友と会えなくなるよ。 詩人王維が安西の都護府に行く事となった元二(げんに)に贈った詩は今でも「陽関三畳」として、最後の行を繰り返し、送別の場で歌われる習慣があるとのことである。

詩   元二の安西に使いするを送る  王維

   渭城の朝雨 軽塵を潤す

   客舎清々 柳色新なり

   君に勧む更に一杯の 酒を尽くせよ

   西の方陽関を出でなば 故人無からん

   無ならん無からん 故人無からん

   西の方陽関を出出なば 故人無からん

 長安には今夜も一つの月がかかっている、都大路の家々からは絹を打つ砧(きぬた)の音が聞こえてきます。 月 砧 そして秋の風、どれも貴方を思い出すものばかりです、何時になったら貴方は戦場から帰って来るのでしょうか。 李白の「子夜呉歌」は、留守を守る妻達の切々たる思いを詠んでいる。

詩    子夜呉歌   李白

    長安 一片の月

    萬戸衣を 打つの声

    秋風 吹き尽くさず

    総て是れ 玉関の情

    何れの日か 胡慮を平らげて

    良人 遠征を罷めん

2008年4月 1日 (火)

構成吟「辺塞の詩」 上 

 中国は唐の時代、首都長安は繁栄を極めていた、これにはシルクロードを通じて西欧との文物の交易が大きく貢献していた。しかし、このシルクロードは異民族の侵害を受け、安全の確保は容易ではなかった、この為多くの兵士が長安より遥か千五百キロも離れた西域、玉門関や陽関に派遣され辺境の塞、即ち辺塞の守りについていたのである。

 その地は砂漠の真只中 「戦死した人の骨が踏まれて砂となり、敵兵の目に入る」 と言われる程、猛烈な砂嵐に加え、灼熱か厳寒の死の世界であった。 これら辺塞の情景を詠んだ詩は、機知のあった凉州の地名をとって「凉州詩」と呼ばれている。

詩   凉州詩   王之関渙

   黄河遠く上る 白雲の間

   一片の孤城 萬仭の山

   羌笛何ぞ須いん 楊柳を怨むを

   春光は度らず 玉門関

 此処には美味しい葡萄酒やそれを酌む美しい夜光の杯もある、馬の上から琵琶を奏でる人に誘われて、つい度を越して砂漠に眠ってしまった、しかしどうか笑わないで下さい、昔から戦地に行って何人の人が帰ることが出来たのでしょうか。 救いの無いヤケ酒も詩にすると実に美しい。

詩   凉州詩  王輸

   葡萄の美酒 夜光の杯

   飲まと欲して 琵琶馬上に催す

   酔うて沙場に臥す 君笑うこと莫れ

   古来征戦 幾人か囘る

   

   

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