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2011年8月13日 (土)

風評汚染

 原発の爆発で飛散した広範囲の放射能汚染が色々な形で不安を投げかけている、これに加えて風評被害も拡がっている。 しかし最近では京都の大文字焼きの陸前高田市の松の木の焼却の実行ついての紆余曲折に至ってはお話にならない愚挙である、私はこの様な現象を風評汚染と呼びたい。

 放射能汚染は「実」であるが、風評汚染は「虚」であり、全く役に立たないものである。 何故この虚がはびこるかの原因は実の説明が不十分であるからである、私は政府の発表が悪いことは勿論としても、汚染の実態の説明が表面的過ぎるマスコミの報道の仕方にも問題がありと思う。先の戦争の時大本営の発表とその報道状況と合い似ている、国民の不安を解く説明が必要である。

 色々と要因があるが一つの具体例を挙げるとベクレルという単位と人体えの影響が全く不明である、よく出てくる1kgあたり500ベクレルの制限値が何シーベルトに相当し人体への影響がどの程度かを都度丁寧に説明し、これを重ねて行けば風評汚染の低減に多少は寄与すると思います。

2011年1月12日 (水)

「佑」の字について

 斉藤佑樹選手の登場で、「佑」の字をテレビや新聞でお目にかかる機会が増えた。 結構なことである、その理由は私の名前にもこの字を使っているからである。

 戦後から昭和30年代にかけては、佑の字は名前でも使用出来なかった、この為私の子供に付けたかったが認められず、止むを得ず「祐」の字を使用した。 何時頃から佑の字が使用できる様になったのか知らないが、現在は勿論使用出来る。

 然し長期間日陰者扱いにされたこと、更に子供の名前が祐であったため、私の名前も祐と書かれる事が多く、私も「マアショウガナイナ」と諦めと悟りを開いていた。

 最近佑の字もメジャーとなったので、改めて今年の年賀状を見てみると、誤字は有るわ有るはの情けなさでした。

 一言つぶやきたくて書いてみました。

2009年9月18日 (金)

那智散策

 1泊2日の那智方面のバスツァーに参加した、さいたま新都心を朝8時に出発し、昼食もバスの中でとり、ただ只管に走り続け10時間後の18時に那智勝浦の旅館「ホテル浦島」にたどり着いた、直ちに夕食となり、食後忘帰洞や玄武洞等名物のお風呂を梯子した。

Img_0923  翌日は先ず熊野古道の最もポピュラーなコースであると思われる大門坂の入口から登り、その中間点までの小散策をし、次は那智の瀧、更に那智大社や青岸渡寺と廻った、観光に要した時間は3時間足らずでこの後再び只管Img_0927 走り続け、昼食も夕食もバスの中でとり、10時間後の21時さいたま新都心に着いた。

 考えて見れば、この2日間の殆どの時間はバスの中で過ごしたこととなる、そんなこと最初から分かっていることではないか、と云われれば其の通りである、詩吟の仲間の会で、今回この様なツァーに参加することにしたよとの誘いに乗ったのだから、仕方がないでしょう。

 それでも、ホテルのお風呂の梯子の後、仲間と部屋に集まりノボセ気味の喉に冷たいビールを通し、雑談に興じたことは、その日の疲れを一掃してくれた。

 翌日の観光は熊野古道の時は薄曇りであったが、那智の瀧頃より雨が降り出し、大社に向かう頃から土砂降りとなり、濡れ鼠となって石段を登り参拝したが、その間ずーと大雨にたたられ下山すると小降りとなる等、誰の精進が悪かったのか、散々な観光であった。

 まあ色々な事を経験するのが旅行であり、バスを降りて帰路に着いた時は雨には会わず、土産片手に帰れたことはせめてもの幸いであった。

 写真は大門坂の一景であるが、良く整備されていて本来の古道とは違った観光道路の様な印象でした。

2009年8月10日 (月)

自衛艦体験乗船

 縁あって自衛艦に乗船する機会に恵まれた。艦は護衛艦「しらゆき」 で基準排水量2、950トン、長さ130mの中型の艦船である。晴海埠頭を17時に出航し、19時に横須賀基地に入港するものでした。

 出航までは艦橋の艦長の椅子の直ぐ後ろに陣取り、慌ただしい出航準備の各方面の連絡や確認の様子を観測した、最初はタグボートに引っ張られ、お台場あたりで自力走航ながら徐行し、灯台を過ぎたところからスピードを上げて行った。

 ブリッジを離れ、機関室を見学した頃には、20ノット位のスピードとなっていた、その後船内を眺めたり食堂で小休止をした後、6時頃最後尾のデッキに来ると、後部の水面がうず高く盛り上がっていて壮観であった、聞けば最高速度に近い28ノットで走っているとのことでした。暫くするとスピードが落ち始めたので係員に聞くと、もう横須賀に着いておりこれから入港、着岸するとのこと、19時迄に未だ1時間位あるのにと思ったが、それからは徐行、超徐行の上、最後はタグボートに引かれUターンし、二隻のボートに押されてゆっくりと停泊中の僚船に横付けとなった。この時時計を見ると19時で正に時間通り着岸したのである。

 出航、着岸の時間の正確さには感心したが、着岸に小1時間掛かったことは、不慣れな乗客の安全の配慮もあってのことと思いますが、艦の性格上もっと機敏に、短時間で処理できないものかと感じた、客船なら15分位で処理している、非常の時には時間は重要な要素である、この様な機会も演習の場として見せてくれればもっと感動を覚えたと思う。

 何れにしても、短い時間であったが、日常経験出来ない、色々な場を見ることが出来、良い体験乗艦でした。名物の海軍カレーも買って帰りました。

2009年7月27日 (月)

ことぶき吟詠大会

 「ことぶき吟詠大会」という催しが毎年行われている。東京都の文京・豊島・荒川・北・板橋の城北5区に住み、70歳以上の詩吟愛好者が集まり、詩吟や詩舞を発表する会である。

 今年は板橋区の主催で 7月26日 板橋区立グリーンホールで開かれ、約200人が参加しての賑やかな大会であった。年は取っても朗々たる声は衰えず、舞台に立つ姿も毅然たるもので、健康で長寿を楽しんでいる姿には感動した。

 詩吟については85歳以上の人、詩舞については80歳以上の人は高齢者として表彰されるという制度も設けられており、今年は18名の方が表彰された、90歳以上の方が6名いたが、皆しっかりと歩いていた、杖を使っていた人は2人という状況であった。私には表彰は未だ遥かな先の話であるが、この様な先輩を見習って元気な高齢者になりたいと思った次第です。

 私は聖路加病院の日野原先生の主宰する「新老人の会」にも加入しているが、元気な高齢者に出来るだけ接し、その生き方を参考にすれば自分も健康を保てるとの趣旨の話を聞いているが、今回のことぶき吟詠大会でも、このことを感ずることが出来た。

2009年6月26日 (金)

寺社随想 坂戸市 聖天宮

Simg_0878 埼玉県の坂戸市の一角に絢爛豪華な台湾風の神社が造られている。台湾出身の実業家が大病を患ったが、神を信じ完治されたのを機にお宮を建てたく、その地を探していたがお告げによりこの場所が選ばれた。

 台湾より材料を取り寄せ、万物の成立を司さどる「元始天尊」を主神とし「道徳天尊」「霊寶天尊」の三尊を祀る道教のお宮である。15年を掛け、平成7年に開廟した。

 黄色の屋根は好運を呼び、屋根に配置された龍や鳳凰はその先端の爪や羽先まで細かく細工された焼物で飾られている。建物の内部も見るべきものが多々あり、見事に造られたものと感嘆させられる。

 ただ私には日本の神社にはそれが建造された歴史があり、それから来る壮厳さを感じるが、こういった感覚が感じなかったのである。又残念ながら道教についてはよく知らないのでそのことも理解を浅くしているとも言える。

2009年4月29日 (水)

寺社随想 伊勢神宮

 伊勢神宮は日本の神社として、最高の格付けを有していることに異存は無いと思う。 然し この神宮の誕生についてはどうであったかを考えてみたい。

 伊勢の地に天皇家の祖先である天照大神を祀ることについては、「日本書紀」の崇人天皇と垂仁天皇の時代のなかで述べられている。 然し書紀のこの時代の記述には疑問が多い。

 私の考えでは、四世紀の終り頃、天皇の時代でいえば応神天皇の時代(紀元380年頃~) 大和王朝がやっと九州から近畿地方迄を一つの統治国家として纏めることが出来た、然し東の方は伊勢・熊野迄で、その東は尾張や東国は異なった勢力を有していたと考えられる。そのため大和王朝として支配の東方の伊勢の地に神社を造営したと考えては如何だらうか。この当時の神社は夫々の地域毎の豪族の長が権力の象徴として、また人心の掌握や統合等の目的で造られていったと考えられる。従って格式の高い神社によって、大和王朝の力がそこに及んでいることを周辺に知らしめる効果を狙ったのである。伊勢神宮の場所には元々地元の神社が有ったようで、これを格上げしたとも伝えられているが、この神社の存在が大和王朝の権力の誇示に大いに寄与していると思う。

 大和王朝はその後約100年後の六世紀に入り、大和朝廷として全国の統合を果たしていき、神宮も東方の限界ではなくなったが、全国版の神社としてその存在は変わることはなかった。

 下って、紀元672年の壬申の乱の時、大海人皇子は吉野を発って東方に向かい、戦勝を祈念して伊勢神宮を遥拝し、東国に入り、尾張の加勢も得て争いに勝ち、天武天皇となった、その後直ちに伊勢神宮に感謝の礼を込めて式年遷宮や斎王の奉仕の制度を設け、伊勢神宮の格式を更に高め現在に至っている。この部分の日本書紀の記述は概ね正しいと思われる。

2009年4月17日 (金)

寺社随想 大宰府天満宮

Sdsc02107  私が九州大宰府天満宮を訪れたのは、雨の日の平日であったが、結構人が参拝に来られていた。さすが天満宮としては京都と並ぶ總本社で人気の高いことが伺えた。

 私がやや異常に感じたのは、参拝者の中に韓国の学生の団体が数組来られており、又中国や東南アジヤからの外人のグループも多く目に付いたことであった。当時首相の靖国神社参拝について、中国や韓国から批判の声が強く、国交問題までに進展していたので、両国の人民は日本の神社参拝にはアレルギーがあるのではないかと考えていたが、見事に裏切られたのである。然し彼らは日本の神社について、良く調べ良く学んで、日本人以上に神の本質を知っているのではないかと、多いに反省させられた

 九州という地の利があるとはいえ、彼らは単に観光だけに天満宮に訪れている訳ではないと思う、基本的には祀られている神を尊敬し、あやかりたいという、多くの日本人と同じ気持ちて参拝していると考られる。良き神は国際的にも表敬されるのである。

 参拝の帰り、グループの人に、言葉が通ずるかどうか分からないが「雨の中、ご苦労さん」と声を掛けた次第です。

2009年4月 6日 (月)

寺社随想 越後龍澤寺

 昨年訪れた寺社に触れなかったが、龍澤寺も秋に訪れていた。先日のNHKの大河ドラマ「天地人」の終りにこの寺が、上杉家ゆかりの寺として紹介されたので、取り上げた。

Simg_0750 龍澤寺は越後の上越国際スキー場の近くで、文殊菩薩をご本尊としてしている。 左程大きな寺ではないが、近くには樺沢城跡もあり、二年前の「風林火山」の時も紹介され、その頃から訪れる人が増え、住職に言わせると「昼寝ができなくなった」そうである。

 上杉家にとっては、樺沢城は重要な拠点であり、龍澤寺も尊重され、謙信公の御朱印状が残されている。 又後日景勝が迎えた武田勝頼の妹菊姫の護身用の薙刀も置かれている。

 これからの大河ドラマの北条との攻防の舞台として、どのように画かれるのか楽しみである。

2009年3月17日 (火)

寺社随想 長野諏訪大社

Simg_0765  昨年最後に訪ねた寺社は諏訪大社の上社本宮である。数年前下社の秋宮を訪ねているが、壮大な美しい神社であったので本宮は更に重厚なものと想像していたが、意外と簡素な建物であった。聞けばご神体は守屋山という山そのものだ相だ。

 ご祭神は建御名方命(タケミナカタノカミ)、この神は出雲の大国主命の子供であるが、高天原より下った武甕槌命(タケミカヅチノミコト)と国譲りをかけ力を競ったが敗れ、諏訪の地に逃げ、もうここからは出ないと宣言し、此れが諏訪大社に神となったのである。 然し諏訪の神社は地方神を祭るものとして古くから有ったとも伝えられている。

 言い伝えは兎も角、諏訪と出雲は日本海をルートにして、弥生時代から交易があったと考えられる。出雲からは鉄器ゃ銅器等当時のハイテクの物が供給され、諏訪からは玉石やその加工品が届けられ、相互に技術や文化の向上に寄与した、こういったことのお礼として古事記の記載に従って、大社が建造され、祭神としたのであらう。

Simg_0769  諏訪大社の特徴の一つが、御柱であるが、この本宮にも立派なものが立てられている(写真右)。この技術も出雲から伝わったのだらうか。

 話は変わるが、神々の力較べは日本書紀には書かれていない、日本書紀では、似た話は垂仁天皇の時代大和に当摩蹶速(タギマノクエハヤ )という天下の力自慢の力士と称していた男がいたが、これを倒さんと出雲から野見宿禰が呼ばれ、闘った結果野見宿禰が勝ち、これが相撲の元祖であると書かれている。

 この2つの話から、天から下ったタケミカヅチノミコトも野身宿禰も朝鮮半島からの渡来人だったと考えるのはどうだらう。もしそうなら高天原は朝鮮半島だったこととなる、弥生時代半島から稲作・鉄器・銅器等多くの技術や文化をもたらされたことを感謝して神の国としたと想像できる。

 古代史として「記紀」に書かれたことから、真実を想像することも楽しいことである。

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