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2008年5月 8日 (木)

構成吟の投稿終了

 約一年余りにかけて私の制作した構成吟の発表は、前回の投稿で一応終了とします。 ご覧いただいた方々には感謝します。

 今後このブログには、日本の古代史について、。私のささやかな知り得たことに、大胆な推定したものを逐次発表していきたいと考えています。 誰かの学説でなく、ユニークなものと思っています。

2008年4月18日 (金)

物語吟詠「楊貴妃」 下

 その後、玄宗は権力を取り戻しましたが、今は楊貴妃は居なく、寂しさの空しい日々で、宮中の太液池の蓮の花を見ては楊貴妃の顔を浮べ、柳の枝は眉の様に思われた。

詩  帰り来たれば 池苑皆旧に依る

   太液の芙蓉 未央の柳

   芙蓉は面の如く 柳は眉のごとし

   此れに対して如何ぞ 涙の垂れざらん

 玄宗は、段々と楊貴妃の幻を追って仙女の世界に彷徨い、その幻想の中で楊貴妃が真珠のすだれや銀の屏風から姿をあらわし、ふわりとした美しい髪はしどけなく垂れ、花の冠も正さぬまま、あたかも羽衣の舞姿となっていた。

 そして天上にあっては、比翼の鳥となり、地上にあっては、連理の枝ととなり、何時までも夫婦でいたいものと、二人の離別は何時までも長い恨みとなって尽きることはないであらう。

詩  雲鬢半ば偏りて 新たに睡りより覚め

   花冠調えず堂を下りて来る

   風は仙袂を吹いて 瓢颻として挙がり

   猶お霓裳(げいしょう)羽衣の舞に似たり

   天に在りては願わくば 比翼の鳥と作り

   地に在ては願わくば 連理の枝と為らん

   天長く地久しきも 時有りて尽く

   此の恨みは綿々として 尽くる期無からん    

2008年4月15日 (火)

物語吟詠「楊貴妃」 中

 楊一族は実権を我が物とし、民衆は悪政に苦しめられました。 この時、突如として安禄山が反乱を起こしました。 皇帝も安楽の夢を吹き飛ばされてしまい、戦火に追われて長安を捨て、西南の地、蜀の国へと落ち延びていきました。

詩  漁陽(ぎょよう)の兵鼓地を動かして来たり

   驚破す 霓裳羽衣(げいしょううい)の曲

     九重の城闕(じょうけつ) 煙塵生じ

   千乗万騎 西南に行く

 落ち延びる途中、楊貴妃が、逆臣安禄山と通じていたことが発覚し、哀れ楊貴妃は、家臣の怒りを抑えることが出来ず、皇帝の馬の前で三十八才の短い一生を閉じたのでした。 

 花のかんざしは地に捨てられたまま拾う者もいなく、皇帝は顔を覆うばかりで救うことも出来ませんでした、そして振り返って見ては血の涙を流すのでした。

詩  宛転(えんてん)たる峨眉 馬前に死す

   花鈿地に棄てられて 人の収むる無し

   君主面(おもて)を掩いて 救い得ず

   回(かえ)り看(み)れば 血涙相和して流る

   

2008年4月 8日 (火)

物語吟詠「楊貴妃」 上

 今から約千二百年前の中国、唐の時代、時の皇帝は美人を好み、国を傾ける程の美女を得たいと思い、長年探していましたが得られませんでした。 この時楊(よう)という家に娘が一人、深窓に育てられてられ、その存在を誰にも知られず大人になっていました。

 唐の皇帝玄宗と、傾国の美女と謡われた楊貴妃を詠んだ、白楽天の長編の詩「長恨歌」(ちょうごんか)はこの様に書き出されています。

詩   長恨歌   白楽天

   漢皇色を重んじて 傾国を思う

   御宇多年求むれど 得ず

   楊家に女有り 初めて長成す

   養われて深閨に在り 人未だ識らず

 しかし、天はそのまま埋もれさせておくはずも無く、ある日突然選ばれて、皇帝のお側に侍ることとまりました。 彼女が微笑むと、なまめかしさが溢れ、後宮三千の美女達も色褪せてしまう程でした。

 貴妃とは、正室に次ぐ第一側女の地位を指し、楊貴妃は玄宗の寵愛を独り占めにしました。

詩  一朝選ばれて 君王の側に在り

   眸を廻らして一笑すれば 百媚生ず

   六宮の粉黛 顔色無し

   後宮の佳麗 三千人

   三千の寵愛 一身に在り

 春はまだ寒く、皇帝は彼女に華清宮の温泉に湯浴みをすることを許した。 芙蓉の花の帳の中は暖かく、愛をかわす春の日は忽ちに過ぎ、日が高く昇って、ようやく起き出すという様で、皇帝は政治をすっかり忘れてしまいました。

詩  春寒くして浴を賜う 華清の池

   温泉水滑らかにして 凝脂を洗う

   芙蓉の帳暖かにして 春宵を渡る

   春宵短きに苦しみ 日高くして起き

   此れより君王 早朝せず

   歓を承け宴に侍して 閑暇無し

   

2008年4月 4日 (金)

構成吟「辺塞の詩」 下 

 何時の世でも別れは悲しい、まして辺塞の地へ旅立つ友を送ることは一層の感慨があったであらう。

 今朝の雨で渭城(いじょう)の柳も塵を洗われ青々と色鮮やかになっている、さあ君、もう一杯の酒を飲もう、西の方陽関を過ぎれば最早親しい友と会えなくなるよ。 詩人王維が安西の都護府に行く事となった元二(げんに)に贈った詩は今でも「陽関三畳」として、最後の行を繰り返し、送別の場で歌われる習慣があるとのことである。

詩   元二の安西に使いするを送る  王維

   渭城の朝雨 軽塵を潤す

   客舎清々 柳色新なり

   君に勧む更に一杯の 酒を尽くせよ

   西の方陽関を出でなば 故人無からん

   無ならん無からん 故人無からん

   西の方陽関を出出なば 故人無からん

 長安には今夜も一つの月がかかっている、都大路の家々からは絹を打つ砧(きぬた)の音が聞こえてきます。 月 砧 そして秋の風、どれも貴方を思い出すものばかりです、何時になったら貴方は戦場から帰って来るのでしょうか。 李白の「子夜呉歌」は、留守を守る妻達の切々たる思いを詠んでいる。

詩    子夜呉歌   李白

    長安 一片の月

    萬戸衣を 打つの声

    秋風 吹き尽くさず

    総て是れ 玉関の情

    何れの日か 胡慮を平らげて

    良人 遠征を罷めん

2008年4月 1日 (火)

構成吟「辺塞の詩」 上 

 中国は唐の時代、首都長安は繁栄を極めていた、これにはシルクロードを通じて西欧との文物の交易が大きく貢献していた。しかし、このシルクロードは異民族の侵害を受け、安全の確保は容易ではなかった、この為多くの兵士が長安より遥か千五百キロも離れた西域、玉門関や陽関に派遣され辺境の塞、即ち辺塞の守りについていたのである。

 その地は砂漠の真只中 「戦死した人の骨が踏まれて砂となり、敵兵の目に入る」 と言われる程、猛烈な砂嵐に加え、灼熱か厳寒の死の世界であった。 これら辺塞の情景を詠んだ詩は、機知のあった凉州の地名をとって「凉州詩」と呼ばれている。

詩   凉州詩   王之関渙

   黄河遠く上る 白雲の間

   一片の孤城 萬仭の山

   羌笛何ぞ須いん 楊柳を怨むを

   春光は度らず 玉門関

 此処には美味しい葡萄酒やそれを酌む美しい夜光の杯もある、馬の上から琵琶を奏でる人に誘われて、つい度を越して砂漠に眠ってしまった、しかしどうか笑わないで下さい、昔から戦地に行って何人の人が帰ることが出来たのでしょうか。 救いの無いヤケ酒も詩にすると実に美しい。

詩   凉州詩  王輸

   葡萄の美酒 夜光の杯

   飲まと欲して 琵琶馬上に催す

   酔うて沙場に臥す 君笑うこと莫れ

   古来征戦 幾人か囘る

   

   

2008年3月29日 (土)

構成吟「李白と杜甫」 下

 杜甫は李白より約10年遅れて誕生した。 人柄は誠実で真面目であり、不合理、不公平には憤り、人の情けには感動する人でした。杜甫も役人として仕え、高級官吏を目指し、科挙の試験に挑んだが、遂に合格出来なかった苦労人であった。

 「貧交行」は、杜甫の性格を良く表した詩で、春秋の時代、管仲と鮑叔の交わりの例を引いて、現在の人情の薄くなったことを嘆いたものです。

詩    貧交行     杜甫

   手を翻えせば雲となり 手を覆せば雨

   紛紛たる軽薄 何ぞ数うるを須いん

   君見ずや管鮑 貧時の交り

   此の道今人棄てて 土の如し

 

 杜甫が内乱に遭遇したのは46才の時であった、住んでいた土地を追われ、家族とも離れ離れとなってしまった、この時の様子を詠んだのが、有名な「春望」である。

 杜甫は千五百首の作品を残しているが、殆どはこの苦難の時期に作られたもので、目に映る情景や自然を詠んだものが多いが、その美しさや力強さに較べ、自身の哀れさや弱さを重ね合わせ人の心を打つ名詩に仕上げている。

詩   春望    杜甫

   国破れて 山河あり

   城春にして 草木深し

   時に感じては 花にも涙を濺ぎ

   別れを恨んでは 鳥にも心を驚かす

   烽火 三月に連り

   家書 萬金に抵る

   白頭掻けば 更に短く

   渾べて簪に 勝えざらんと欲す

 

この後杜甫は再び長安に戻ることなく、中国各地を放浪し、江南の地で59才の生涯を閉じた。 離れ離れになって以降、李白と杜甫は相ま見えることは無かった。

 

2008年3月19日 (水)

構成吟「李白と杜甫」 中 

 繁栄を極めていた唐も、必ずしも安泰でなく、西方の夷狄の進攻に悩まされており、多くの兵士を辺境の地に送っていた。 これらの兵士の苦悩を何人かの詩人は「涼州詞」として詠っている、一方李白は留守をあづかる家族の切なる思いを「子夜呉歌」(しやごか)に詠んでいる。 子夜とは当時、哀れな歌声で歌う人気歌手の名前で、この詩は李白が、その歌手のため作詞したものである。

詩   子夜呉歌      李白

   長安 一片の月

   萬戸 衣を擣つの声

   秋風 吹き尽くさず

   総て是れ 玉関の情

   何れの日か 胡虜を平らげて

   良人 遠征を罷めん

 西暦755年 突如安禄山が内乱を起こし、皇帝玄宗は長安から追放され、最愛の人楊貴妃が殺害されてしまった。李白は一時長安を追われたが、多くの人の嘆願により恩赦を受け、幸運にも長安に戻り余生を送ることが出来た。

 恩赦により、急遽長安に戻れることとなり、嬉しさと、はやる気持ちを詠んだのが「早に白帝城を発す」であった。

詩   早発白帝城   李白

   朝に辞す白帝 彩雲の間

   千里の江陵 一日に還る

   両岸の猿声 啼いて住まざるに

   軽舟已に過ぐ 萬重の山

2008年3月11日 (火)

構成吟「李白と杜甫」 上 

 八世紀中頃、日本では奈良時代、中国では唐が栄え、その都長安は隆盛を極めていた。 そしてこの時、多くの詩人が世に現れた。これを代表するのが、李白と杜甫であらう、二人はほぼ同時期に生涯を送り、共に詩に対する情熱は高く、多くの名詩を残している。

 現在李白は詩仙、杜甫は詩聖と呼ばれている、然しその性格や生き様は対照的であり、それらは残された詩によく反映されている。

 李白は702年に生まれ、当時の皇帝玄宗に仕える役人であったが、特に出世は望まず、自然や自由や酒を愛する遊興の人であった。 この人柄を自ら詠んだ「山中対酌」(さんちゅうたいしゃく)を聞いてみよう。

詩   山中対酌     李白

  両人対酌すれば 山花開く

  一盃一盃 復一盃

  我れ酔うて眠らんと欲す 君しばらく去れ

  明朝意あらば 琴を抱いて来たれ

 

 李白はまた旅を好み、その山水を見事に詠んでいる、「天門山を望む」や「廬山瀑布を望む」「洞庭に遊ぶ」等が有名であるが、その代表は「峨眉山月の歌」であらう、そそり立つ高い山、それに掛かる片割月、それらを映す川面を巧みに組み合わせたもので、訪れたことの無い人でもその情景を一幅の絵として彷彿させるものがある。

詩    峨眉山月の歌    李白

   峨眉山月 半輪の秋

   影は平羌 江水に入って流る

   夜清渓を発して 山峡に向こう

   君を思えども見えず 渝州に下る

2008年2月29日 (金)

物語吟詠「父帰る」 あとがき

 「父帰る」は、菊池寛先生の有名な戯曲ですが、この題名と概略のストーリーをいただいて構成したものです。話の内容は喜怒哀楽が交々に表れ、この時々の感情に適した詩や和歌を挿入し、詩文の理解を助けることを意としました、従って詩や和歌は物語りとは直接関連を持っていません。又話が冗長にならないよう、簡潔に纏めました。

 さて、これ迄日本の歴史に従って、幾つかの構成吟を発表してきましたが、これからは中国篇として、引き続き発表してゆきます。 最初は唐の時代の大詩人「李白と杜甫」についてです。

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