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2011年10月27日 (木)

TPPは第2の黒船来航か

 江戸時代の末期、黒船の来航によって正体不明のまま、開国か攘夷かに世間は大いに揺れた。江戸幕府は開国を朝廷は攘夷を唱え、数々の混乱と抗争の後約15の後朝廷は明治の時代となり、外国の文明開化を受ける状態に変身し、その後の日本の繁栄を迎える礎となった。

 下って現在「TPP」なるものを巡って、これを受けるべきか、断るべきか騒然としている、関係者も世間もこの正体を掴みかねている、受ける方の代表は経済界であり、反対の代表は農業界である、夫々事情は察しられるが日本全体としてどうかとか、国民にとってはどうかとの視線は感じられない。

 歴史は繰り返す、黒船同様何らかの対応が必要である。結局大観すると混乱と痛みの末反対派が賛成を享受する方向に転進することになるであらう。

 幸い日本の優れた品質の農畜産物が、諸外国に認められ国際市場に流通することにより農畜産業が大きく再生興隆することとなり、庶民は安価な外国の作物も選択出来豊かな生活ができれば良いと思う。この変革には多少の時間は掛かろうがその様になってもらいたいものだ。

 TPPと言う黒船は来航してしまったのである、早い事受け入れの意思表示をしその内容を究めてゆくるべきである。

2011年6月 9日 (木)

寺社随想 京都 清閑寺

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 京都 東山 清水寺の南に清閑寺という山寺がある。観光とは余り縁が無く訪れる人も少ないが、創建は平安時代の802年と古く、かっては清水寺と並ぶ大きな寺であった様だが、現在は小さな本堂と鐘撞堂のみのであるが歴史的には興味深い寺である。

 平家物語に「小督局」(こごうのつぼね)の話がある。 小督は公卿の桜町中納言藤原成範の娘で、美人で琴の名手でもあった、若くして宮中に仕え小督局と呼ばれていた、特に時の天皇高倉帝には覚え目出度くご寵愛を受けていた、然しこの事が天皇の中宮建礼門院徳子の激しい妬みを受け、ことごとに辛く当たられたので密かに御所を抜け出し嵯峨野の嵐山の地に隠れ住んだ。天皇は深く悲しみ近臣源仲国に探す様に命じ、仲国琴の音を頼り無事探し当てることが出来た。ここ迄は良く知られている話であるが、この後が清閑寺に繋がって行く。その後小督は範子内親王を出産するが、徳子の父平清盛の怒りは収まらず、清閑寺にて泣き縋る小督の黒髪を落とし出家させたのである。

 高倉天皇は哀れと思いながら何もすることができなかった、そして21才で若くして亡くなったが自分の墓は清閑寺に造る様遺言し、現在その御陵は寺の隣接地に造られている。 小督は御陵の近くに庵を建て41才て没する迄尼として天皇の菩提を弔ったと伝えられている。                                                             

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2010年8月19日 (木)

日本の最初を求めて 素麺

 箸墓古墳のあたりから三輪の里に入り、素麺の製造会社が散見される様になる、ここは日本で最初に素麺が製造された所である。この素麺が生れる迄の歴史を紹介し、併せて倭国の誕生の歴史を総括し、この旅行随想の後書きとしたい。

 素麺の製造者は三輪にある大神神社(おおみわじんじゃ)を崇拝している、これはこの神社の祭祀である大物主命(おおものぬしのみこと)の話から始まる。大物主命は日本書紀では大国主命の和魂(にぎたま)とされているが、正体不明の神か人かどうかもよく分からない存在である。

 話はやや反れるが、出雲では2千年程前からスサノオの命が朝鮮半島の文化として農業・林業それに鉄や銅の金属加工技術等を取り入れ、大国主命の時代には出雲の経済を豊かに育成していた。大物主命は紀元200年頃、出雲より大和の地に移り、大和の地に農業・林業・金属の加工技術等を普及させた人または一族の長だと私は推定する。

 大物主命が普及させたものの一つに小麦の栽培があった、この人の娘が「太田田根子」であるが、この子孫が代々職を継ぎ、12世孫の狭井久佐が、宝亀元年(紀元77〇年)それ迄の小麦の品種の改良、小麦粉の加工方法の考案等の技術を結集し、素麺の原型を作りあげることに成功した。この時の名前は牽餅(むぎなわ)と呼ばれ現在の手延べ素麺とは相当異なっていると思うが素麺の原型とされ、三輪の地で生れたのである。

 小麦の栽培から約500年以上の歳月をかけ、あの細くて長い、しかもコシある食品に仕上げたのである。 この素麺誕生の話は、私の実家が素麺の製造に携わっていて、私の兄が昭和51年に発行した「淡路そうめん」なる冊子から引用している。 因みに淡路での素麺製造は大正7年より始まり、この時三輪明神を建立し大神神社のご神体を迎えたとされている。淡路の素麺は、逸早く品種の層別を行い、これをラベルに表示し品質の保証を行った、優秀な品種は 1915年のサンフランシスコ万博に出品し金賞を獲得した実績がある、現在でも良い品は京阪神の一流料亭で使われていて、実に食べ応えのある素麺である。

 さて話は大きく変るが、紀元200年頃の大和は、天皇家の遠祖となる豪族、日本書紀では崇神天皇に相当するが、物部家や大伴家の軍事力に護られ、又大物主命を代表とする、出雲の文化や技術で経済力をつけ、これ等の力を纏向の地(まきむく桜井市にあり、石上神宮と大神神社を結ぶ線上にある地)で統括し、倭国の始まりであり、発芽となった。

 この芽がどんどん勢力を伸ばし、強固な集団として大きく成長して行く、約200年後の紀元400年頃応神天皇の時代更に発展させ、紀元500年頃継体天皇の時代近畿地方を纏めて大和朝廷の確立へと発展し、次の飛鳥時代となり花が開いた。

 日本誕生から大和朝廷確立迄を、素麺と同列には考えられないが、数100年かけて何代にも亘って多くの関係者により育成された歴史を感じさせられる。中国等多くの国では君主の代わる毎に、先代の文化を破壊する歴史の国とは大きく異なり、これが我が国の素晴らしさとなっていることは自慢して良いと思う。このため中国や朝鮮で見出せない遺物も数多く残されている。

2010年8月12日 (木)

日本の最初を求めて 箸墓古墳

Simg_1148  今回の旅行の最後の訪問地は箸墓古墳である。

 古墳に祀られているのは「倭迹々日百襲姫命」(やまとととひももそひめのみこと)と云う長ったらしい、舌をかむ様な名前であるが、この古墳は巨大前方後円墳としては最初で3世紀後半頃に造られたものとして有名である。前方後円墳全体としても10番迄には入る。

 やまと姫は孝霊天皇の皇女で崇神天皇の叔母にあたるが、崇神天皇の時代、凶作や疫病が流行り、多くの死者が出た、この時姫には特別の霊力があり、天皇に何かと助言しこの結果世の中は安泰となったと言う経過があり、又謎の神大物主命(おおものぬしのみこと)の妻となったが、オオモノ主は正体が分からず、調べたところ蛇の化身であったことに驚き箸でホト(陰部)を突き刺し死亡したという謎の多い女性てある。箸墓の名はこれに由来している。

Simg_1150  オオモノ主は出雲の大国主命の関係者で、大和地方に出雲の力を隠然と示しこれまた謎の人物(神ではなかったと思う)であった、従って謎の多いやまと姫は手厚く葬られ、当時の天皇同様、この様な巨大古墳に祭られていろのであらう。

 古墳は現在は半分となった周濠に囲まれ立派な佇まいであるが、その正面は写真の如く簡素なものである、正面に沿った小道の後ろは田圃で前庭等無い。当然宮内庁の所管で観光など以ての外との扱いを感じた。歴史的には名だたる古墳で卑弥呼の関西説の拠点でもあるが現場は淋しいものでした、30分程観光していたが、この間に訪ねてきた観光客は1組であった。 

2010年8月 9日 (月)

日本の最初を求めて 山の辺の道

Simg_1141Simg_1142_2  日本で最古の道として知られている山の辺の道は、天理の石上神宮を中継点として、奈良の方に向かう北コースと、桜井の方に向かう南コースがある。何れも現在は古代を偲ぶハイキングコースとして有名である。

 今回私は石上神宮より南コースを自転車で走った、道は舗装はされていないが、踏み固まり、道幅も適当に広く、自転車で走るのが最適である、勿論車やバイクは走れないので安全でもある。道の起伏は多少あるが、長い登り道等は無い、これはこの道は山の裾野部分を縫う様に造られているためで、文字通り山の辺に沿った道である。

 暫く走ると、夜都伎(やとぎ)神社と云う面白い名前の神社に到着した、美しい千木を冠した社殿が3棟も有ったのには驚いた、春日大社と関連のある神社の様だ、木陰の豊かな境内で昼食を取っているグループを2、3見たが楽しそうでした。

Simg_1144  竹之内環濠集落を眺め苦労の跡を偲び、更に南下すると古刹で知られている長岳寺がある、弘法大師が開いたとされ、我が国最古の玉眼佛である阿弥陀三尊像がご本尊である。シーズンによって色々な花が咲き誇る花の寺としても有名であるが、この時期花には恵まれなかった。 素麺が初めて作られた三輪の里に近く、ここでの昼食の素麺は旨かった。

 ここで山の辺の道に別れを告げ、国道169号を南下し、箸墓に向かった。

2010年8月 2日 (月)

日本の最初を求めて 石上神宮

Simg_1139  石上神宮(いそのかみじんぐう)は崇神天皇の時代に設立された日本で最初の神宮とされ、その歴史は古い。

 祭神は布都御魂大神で、その神の剣を神霊としている。この剣は神武天皇の東征の時、熊野の地で倒れていた一行が、この剣を神より授かり奮い立たせたとされている。後に物部家が氏神となり、天皇家を守る軍隊の拠点として武器庫の役も務めていた様である。

 今この剣が存在しているかどうかは不明であるが、先に述べた如く百済から贈られた「七支刀」は保管されている。

 天皇家に贈られた物が何時如何なる事由で物部家に下賜されたか、記録には無いが現物が軌跡的に存在している。私の推定では、本来この刀は百済を援軍した物部氏に、直接渡されたのではないかと思う。寧ろ軍隊を統括している物部家としては、この時代のハイテクの刀を手に入れ、強さのシンボルとして利用するため百済にお願いしたものと思うが如何なものか。尤も応神天皇の子で後の仁徳天皇が子供の頃この刀が気に入り遊びに使っていたとの話もある。

2010年7月29日 (木)

日本の最初を求めて 七支刀

Photo  今回の奈良観光の目玉は、天理市の石上神宮(いそのかみじんぐう)で秘蔵されている国宝「七支刀」( しちしとう)の拝観である。

 平城遷都 1300年の記念行事の一つとして、殆ど公開されない神刀が特別公開されるとのPRを見て、かねてより一度は見てみたいと思っていたので、早速申し込み、承認されたので、今回の一連の観光を計画した。 幸い私の高校の同窓で同郷の友人の同行をお願いし、快諾を得たので2人で膝栗毛を繰り広げることとなった。

 七支刀の拝観は3日目の最初の行事であるが、今日は天候に恵まれそうなので、天理の駅頭でレンタサイクルを借り、石上神宮に向かった。天理市は云わずと知れた天理教創価学会の総本山の場所で、道中の大部分はこの関連施設を通り抜けることで、その壮大さは大した物である。その奥の方へ暫く坂道を登ると石上神宮に到着した。

 見学のグループは50人で、先ずお祓いを受け、神刀に接することが許される、その後簡単な説明を受け、刀を飾っている部屋に通された。

 七支刀は写真の如く特殊な形状をしているが、中央部の刀身の表裏に全部で61の文字が金象嵌されており、この刀の製造年や造られた目的等が記述されている。簡単に述べると、泰和4年(中国の年号で紀元369年) 朝鮮の百済の王が、倭国の王に贈ったとのことである。

 この事は日本書紀には詳しく説明されている、紀元372年 倭国からの援兵により百済は新羅を制圧することが出来た、これにより百済の肖古王がそのお礼として、倭国の神功皇后に贈ったとされている。このことから、私は歴史書に裏打ちされた日本の最初て最も古い遺物であると位置付けている。

 日本書紀によればこの刀と同時に七子鏡が贈られたこととなっているが、この鏡は現在ボストン美術館が保有している様であるが詳細は知らされていない。然し刀だけでもこの様に保存されていることは好運なことで奇跡と云えるのではないだらうか。

2010年7月20日 (火)

日本の最初を求めて 甘樫丘

Simg_1119jpg1  飛鳥の町並みを南に見下ろす場所に甘樫丘(あまかしのおか)がある、標高 148mの小高い丘である。 現在丘全体は飛鳥公園に指定されているので住居は無く、人は住んでいない。

 然し嘗て此処に豪邸を建て住んでいた人が居る、それは蘇我蝦夷と蘇我入鹿の蘇我一族である、邸宅と同時に外敵にも備えた、当時の朝鮮から新しい建築方式を取り入れた立派なものであった様だ。しかし紀元645年の乙巳の変(いっしのへん)で馬子が殺害された時、後難を恐れて曽我一族が邸宅を焼き払ったのである。

 この時残念なのは、それ迄の倭国の歴史を書き留めたものが、ここて総て灰燼に帰したことである。 どの様な内容で真偽もよく分からないが、その後100年位経って書かれた日本書紀や古事記が最も古い歴史書となっている現在、これ等の資料が有れば日本の古代史も大きく変っていたかも知れないので、返す返すも残念なことである。

 丘の上の展望台よりは周辺の町の様子が良く分かり、大和三山である天の香具山・畝傍山(写真)・耳成山も真近に眺められる絶好の場所である。

 明治の時代以降、横浜の山手や神戸の北野に外人が、高台に当時としての豪邸をを建て居住していた跡が現在も残されているが、蘇我家の甘樫の邸宅はこの様な外人系の高台住居の日本の最初のものとして考えることが出来よう。近年甘樫丘東麓遺跡で住居跡と思われる遺跡も発見されている、これからも何かと新しい発見がある事を期待したい。

 午前中の雨で今日は登れないかと思っていたが雨もも上がり、青空が広がり、絶好の状態で丘の上に立って、吹く風に古代から吹いていたものと共感を覚え、なんとも云えない心地よさ、懐かしさを味わう事が出来たのは幸いでした。

2010年7月16日 (金)

日本の最初を求めて 石舞台古墳

Simg_1113  飛鳥を代表する遺跡の一つとして石舞台古墳がある。

 石を組み合わせて造られた墓は朝鮮半島では多く見られる様だが、これ程巨大なものはあるのだらうか。

 半島出身の蘇我萬智の末裔として蘇我家を統括し、更に日本の政治を牛耳る迄強力になった蘇我馬子の墓とされている。Simg_1112 半島の習慣に従い、又勢力を鼓舞するためこの様な巨大墳としたのであらうか。 石室内も広々しており 巾3.4m奥行き7.8m高さ4/7mだそうで、盗掘に会ったため棺等は無くなっているので、一寸した遊びが出来る広さがある。

 この種の古墳としては、日本の最初のものと思う。

 この頃から雨は上がり、空も青さが広がってきた、自転車は無くなったがバスが頻繁に走っているので、何とか観光は出来そうだ。

2010年7月12日 (月)

日本の最初を求めて 高松塚古墳

Simg_1106  奈良観光の初日は葛城氏市の當麻地区を巡ったが、2日目は飛鳥を回ることとした。

 駅頭でレンタサイクルを借り、先ず高松塚古墳を訪れた、約10年前にも同様に訪れたが、1m程の畦道をたどりやっと塚の丘の下に辿り着いた記憶があるが、今は立派なアプローチ通路が出来ている、但し自転車は遥か離れた所に置き、テクテク歩いて着いた、丁度雨が降り始め天候には恵まれなかった。

 以前は丘の下から古墳の有ったと思われる場所を見上げるだけで、鬱蒼たる樹木に覆われていた。 今はほぼ頂上迄登れる、そして古墳の土盛が造られていた。今昔の感があったが、何れが良かったかは考えさせられる。

 高松塚古墳は石室の壁画で一躍有名となったが、この種の古墳としては、その後キトラ古墳が発見され2例はあるが高松塚古墳の方が古く、日本最初のこの種の古墳といえよう。

 今も古墳の内部には当然入室することは出来ず、近くの壁画館で資料を見ることしか出来ない、壁画そのものも発見された時には鮮やかな色彩であったが、自然の保存能力より、人工の保存技術が劣り、数十年で退色変色してしまったことは残念なことである。

 雨は段々激しくなり、とてもサイクルツアーは出来ず、飛鳥の駅で返却し、この後はバスを乗り継いで観光することとした。

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